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「瞑想中、脚が痛いときどうしたらよいですか」

動画の「質問『瞑想中、脚が痛いときどうしたらよいですか』に答えました。」の書き起こしです。
(一部読みやすく改変してあります。)
末尾に動画のリンクがあります。
文章でポイントをつかみたい方、どうぞご覧ください。

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レタスの大友風太郎です。
今「足の痛みが出た時、どのように対処するか」というのが、ご質問に上がりました。
二つ、対処法があると思います。
一つは体の随観として、痛みそのものを徹底的に観察しつくす。
それはやり方として非常に面白いとは思うんですね。ちょっとハードなんですけど、そういうのが好きな方ならやってみる価値はあるという方法です。あまり具体的に話してしまうと、苦行的なものにハマってしまう傾向のある方にはどうかと思うんですけども。

基本的に痛みとか痒みというものは、我々が生命として、起きた瞬間に逃げる、自分から離すものとして認識されてますよね。それをあえて、痒みでも「あっ痒い」となってすぐに掻くんじゃなくて、(痒みが出た)というところにまず気づく。
これは、気づきの力がないとまず無理なんですよね。だからこれに気づけるのは、ある程度気づきが自分の中に浸透してきた、備わってきたという証拠でもあるんです。

痒みに気づいて、まず痒い所を観察してみる。「痒み」っていうものを肉体的に観察するなんて言うことは、我々はまずやらないんで、やってみるとすごく面白いんですよ。「痒み」っていう概念でくくっていたものが、実は肉体に起きている疼きっていうか、まあ「疼き」っていうのも概念ですが、そういうものであるということ。

また痛みも同じように、足を組んで同じ姿勢をしていれば、当然どこか一か所に負担、圧がかかって痛みとしてこっちに伝わってくる。それをただ「いててて、痛くなっちまった、どうしよう」ではなく、まずはそこに気づくこと。自分の中に不安感が出てきて、(タイマー1時間かけて1時間坐ろうと決意してたのに、いまそれが脅かされつつある)、みたいな気持ちにしっかり気づいていく。
そこから先は、本当はひとつの流派でしっかりと修めようという人でしたら、その流派の師匠とか、指導に従ってやるべきだと思うんです。

【注意】
ここから先に述べられている方法は、肉体的に危険を伴う場合があります。
実行する場合には、必ず指導者の指示に従って自己責任で行ってください。

例えば「痛みが出たら痛みが消えるまで観察しなさい」っていう流派があって、そういうことにトライするということは決して悪いことではなくて、一つの考えではあります。
僕なんかは結構、そういうことにトライする方だったし「よし、やってみたいな。その果てに何があるんだろう」「言いたいことはどういうことなんだろう」みたいな傾向があるんで、やってみたんですけど、実際に痛みは消えます。
痛みとして伝わってくる肉体の部分の広さとか、その広さも本当に固定してあるのか、それとも少し変わってくるのか、その波というか痛みのパルスってのが自分に対してどう来るのか、その時どういうふうに心の反応が出ているのかって観察対象としてはすごく面白いと思うんですよ。
体っていうのは痛みに関してでもそうですけど、ある一定のレベルを超えると本当にそこを麻痺させてしまって、我々に痛覚として伝達してこなくなる瞬間っていうのがあるんですね。それはすごく驚きですし、一つの修行の過程としても面白いものだと思うんです。だって痛みが本当はずっとあって最高潮に来ているのにどこかで消える、それはすごくショッキングな出来事です。

【繰り返して注意】
痛みは消えても肉体的なダメージが残る場合があります(うっ血、血行障害、骨や筋肉の不具合など)。
必ず指導者の指示の下で行ってください。

ただ、こういう動画を見てくださっている方がどういう経緯で修行されているか分からないんですけれど、そういう流派・流儀として(指導を受けて)やっているのでなければ、そこまで負担をかけて無理してやるのもどうかなあと最近すごく思うんですね。
一つのマイナス点としては、優越感から、「俺はすごい痛み観察して、そしてら痛み消えちゃった」ってなること。それは痛みが消えたところまで観察して、さらに慢が出ている自分を観察できればいいんですけど、「痛みを消しちゃった(鼻高々)」みたいになってくると、また別の問題が起きるわけで。


もう一つの考えとしては、痛みは痛みとして出てきています、その時自分に不快感、落胆などの気持ちが起きているのをきちんと観察して、(もうこの足を崩そう)と決めたら、その崩す過程を観察すること。肉体的にも解放されていくときの心の安堵感とか、でもちょっと罪悪感があったりとか、そういうのを細かく細かく自分で観察しながら足を組み替えて、すーっと足が楽になる感覚に気づいて、さあまたここから呼吸の観察に(戻ろう)……っていうふうにアプローチする。
それが、在家で修行している我々にとってはやさしいし、すごくいいやり方だと思うんですね。

ただ言いたいのは、瞑想一つとっても、その時の自分の環境とかも含めて自分でデザインしていくものだと思うんですね。○○の本を読んでこのように一生懸命やる、って決めてても、その日の天候とか自分の体調とか環境とかで、それが上手くいかない時がある。それをごり押ししてグーッとやるのも精進力だとは思うんですが、(あ、いまこういう流れになってきたな、じゃあこういうやり方に切り替えてみようか)(こういうやり方に決めてたけど、どうもそういう状態じゃなくなってきたぞ。じゃあ違うアプローチで瞑想に取り組んでみよう)ってその時その時自分でデザインしていけるっていうのは、すごく大事な要素だと思うんですね。

それは、誰かをカリスマ視して絶対視してあがめ奉って言うことを聞くっていうのとは離れている。
自分に瞑想修行の主体がちゃんとあるようなやり方。
それは一歩間違うと、何でもかんでも一緒くたにして自分流にやってしまう危険性もはらんでいるんですけれども。ただ我々は在家で環境がみんなまちまちなんで、そういう不安に思ったことをこういうところで話してみんなでシェアしたりして、うまくやっていけるといいなと思います。
私自身、レタスで講師をやっているといっても、何かインストラクター資格を持っているとか、どこかの山の中でとんでもない修行をして称号をもらったとかいうこともありません。ただ、長いことこういう世界に関わってきて、ちょっといろんなことを知ってますよっていうおじさんに過ぎないんです。でもその在家の見地からのアドバイスっていうか、「こういうのあるよね」ってシェアしたいというのがすごくあります。

その時やる気があって状態が整ってたらとことん痛みを観察してみるのもいいでしょうし、ちょっと撤退して本来やりたかった(お腹の)膨らみ縮みとか、鼻(を通る呼吸の感覚)とか、自分の瞑想対象にもう一回リセットして向かうっていうのもいいでしょうし。
答えがあるようでないような言い方になってしまいましたが、大事なのは自分の瞑想ライフをデザインしていくっていう気持ち。それがあったほうが、より楽しく、長く瞑想ができると思います。

動画リンク
https://www.youtube.com/watch?v=m-J5tME-EVU