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Angelus(アンジェラス) ー1ー

 若い母親たちは白いハットをかぶった小さな天使の手を引いてマリア像の前で立ち止まった。天を仰ぎ、恍惚の表情を浮かべる聖なる女性の前で、親子は静かに手を合わせ、お辞儀する。園長先生は、真っ黒な神父の祭服に身を包み、微笑みを浮かべながらその様子を見つめている。

 その先は、青い芝生に覆われた園庭が広がる。行儀よく先生に挨拶していた天使たちは、カゴから解き放たれた小鳥のように赤い屋根と白い壁の園舎に向かって駆け出した。

「気をつけてね」

母親がそう声をかけたとたん、ひとりの天使が勢いよく芝生の上に転がった。

「大丈夫、痛くないよ」

駆け寄った母親の心配そうな顔を見上げて、女の子は嬉しそうに笑った。世界中の祝福が詰め込まれてプックリと膨らんだ頬に触れたようとしたとき、突然、教会の鐘の音が響いた。

美和子は我にかえった。

25年も前の景色を、なぜいま思い出したのか美和子にはわからなかった。ただ目の前には、突然、帰省した琴子がいた。テーブルの上で組んだ指先は震えている。美和子は琴子の隣にすわり肩を抱いた。ずいぶん痩せたのは、つわりのせいだとすぐに察しがついた。美和子も妊娠初期には体重が落ちたものだ。

「どうして……」と言いかけてハッとした。「どうして?」答えなら多くの女性の葛藤を見てきたならわかる。美和子自身もそうだった。子どもを授かることが誰にとっても幸福だなんて、そんな単純なものではない。

琴子は2年前に学生時代から交際していた青年と結婚した。東京の大学に進学したときも、就職が決まったときも、結婚したときも、一度も不安そうな顔を見せたことがない。いつも天真爛漫で「負ける気がしない」というのが彼女の口癖だった。

「雅人くんは、どう言ってるの?」

琴子は肩を震わせてうつむいた。

「本当に……本当に喜んでる」

美和子は、ポタポタと膝に落ちる涙を見て、琴子を強く抱きしめた。なぜこの涙が喜びの涙じゃないのだろう? 孫ができたと聞かされたら、人は嬉し泣きするものだとばかり思っていた。

「歪んでいるよね? わたし」

琴子が顔を上げて言った。

「いいえ、あなたが歪んでいるわけじゃないわ」

妊娠を喜べないことをマタニティブルーとか、ホルモンバランスの乱れとか、ありふれた言葉で片付けるつもりはない。産んだあとも母親は幾千もの分岐点で悩み続ける。

美和子は、なぜあの明るい園庭の天使たちを思い出したのか少しわかった。あそこにいた若い母親たちの多くが、聖母のように微笑みながらも心はひどく歪んでいたからだ。それが普通だった。

鍵をかけたはずの「忘却」のという箱のふたがカタカタと音をたて、気味の悪い記憶が這いずり出てくる気配を感じた。

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