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Angelus(アンジェラス) ー7ー

 乾いた風に向かって、無数の赤とんぼが、まるで隊列を組んでいるのかのように宙に浮かんでいる。同じところに留まっていたかと思うと、ブルンと羽根を鳴らして移動する

二年前、初めてこの園で夏の終わりを迎えた琴子は、広い庭を飛び回るたくさんのトンボを怖がった。ちょうど琴子の目の高さを飛ぶトンボにおびえ「ぶつかっちゃう」と言って歩けなかったほどだ。

「大丈夫、トンボは大きな目でちゃんと見てるから、ぶつかったりしないわ」

そう言って美和子は琴子の手をゆっくりと引いて歩き出した。琴子が目の前のトンボにそっと手を伸ばすと、素早く身をかわして逃げる。

「ほんとだね。ちゃんとコッちゃんが見えてる」

そう言うと母親の手を振りほどいて、トンボの庭に駆け出した。


三度目の秋、園庭でトンボの群れを追いかける幼い年少さんを見て、琴子は美和子に笑いかけた。

「バカだな、手でなんて捕まえられないよね」

ついこの前まで同じことをしていた琴子の言葉に、美和子は吹き出してしまった。

「なんで笑うの?」

キョトンとしている琴子に美和子は言った。

「コッちゃんは年長さんだから、さすが、よく知ってるなと思って」

美和子は琴子を園舎に送り届けて、川沿いのカフェに車を走らせた。今日は情報交換の日だ。

 受験を決めたときに耳にしたいくつかの都市伝説は、すでにお兄ちゃんの受験を経験した凛ちゃんママに言わせればセオリーなのだそうだ。

「子どもの身長と同じ高さに積み上げたペーパー問題を解かせるって話?そうね、うちの子はもう少し多かったかな」

いくらなんでもそれはやりすぎだと思っていたが、これまで解いた段ボール三箱分のペーパー問題は、とっくに琴子の身長を超えていた。

 リバーカフェには、先に来た凛ちゃんママの黄色いボルボが停まっていた。店に入ると俊くんママとテラス席に座っていた。2学期に入って初めてのお茶会だ。

「先週のママ会ランチ、どうだった?」

凛ちゃんママがすぐに本題に入った。琴子の園では年に二回、クラスごとに母親たちがランチ会をする。顔合わせを兼ねた四月と、送別会を兼ねた二月に開催されるが、年長だけは受験前の九月に行われる。受験の後では落ちた親が恥ずかしくて参加できないからだと噂されている。ふだんは話さない人とも交流できるように、座席はくじ引きで決める。人数が多いときは大きなレストランをまるごと貸し切ることもある。

「コッちゃんママ、翔子ちゃんママと同じテーブルだったね。大丈夫だった?」

俊くんママが聞いた。

「受験についていろいろ勉強してるみたいで、独演会だったわ」

美和子はため息まじりに答えた。

「この時期だから、受験のことで頭いっぱいなのはわかるけど食事が進まなくなるね」

凛ちゃんママがあきれた様子で言った。最近はお迎えのときにも年長の母親たちは受験の話に夢中で、いつまでも園庭に残っている。

「お弁当に、かまぼこやソーセージなどの練り物を入れていると女子校は減点されるって言ってた」

美和子の言葉に、凛ちゃんママが飲んでいたコーヒーを吹きそうになった。

「それ、よく聞くけど、うちはソーセージ入れて受かったよ」

琴子が受ける女子校でも、アンドリューくんのお姉ちゃんがお弁当に大好きな「ちくわきゅうり」を入れて行って合格しているという。

「えっ?そうなの?じゃあ冷凍食品は?」
「なんか完全に平常心が乱されてるね」

些細な噂話に振り回されて、自分で判断できなくなっている美和子に、凛ちゃんママが困った顔をした。そして、塾によっては、そう指導するところもあるが、子供の好きなものを入れてあげるのは、一人で受験会場で過ごす幼い子を励ますことになる。愛情のこもったお弁当まで学校に採点されるとおびえる必要はないと、美和子をさとした。

「それに、あの学校には冷凍食品を販売してる大手企業の会長の孫が通ってるよね」

美和子はハッとした。ランチ会では延々と「こんなことをしたら落ちる」というN G行為ばかり聞かされて、とても不安になっていた。

「そうね。ありがとう。なんだかすっかり混乱してた」

俊くんママが言った。

「それが狙いだったりして。翔子ちゃんママならありえるから気をつけて」

凛ちゃんママが声を出して笑った。

「もう、また怖がらせてどうするの?」

美和子もすっかり肩の力が抜けて、一緒になって笑った。

「経験者でも、この時期には不安になるものよ。でも、親の精神状態って子どもにわかっちゃうから、気をつけましょうね。」

凛ちゃんママは自分にいい聞かせるように言った。

穏やかな川の流れに乗って、ひんやりした風が美和子の髪を揺らした。


 情報交換というより、受験とは関係のない日常の話で笑い合い、気付くとお迎えの時間が迫っていた。美和子たちは慌てて幼稚園に向かった。駐車場に着くと、先日のママ会ランチで、すっかり講師のようになった翔子ちゃんママを、数人の母親が取り囲んでいる。得意げに話す翔子ちゃんママの話をみんな熱心に聞いていた。

 門が開き、立ち話している母親たちの横を通り過ぎ園舎に向かうと、琴子が一番に飛び出してきた。

「ママ! お願いがあるの!」

先生にご挨拶もせず、ママに飛びついた。

「なあに?コッちゃん、どうしたの?」

琴子は美和子の手を強く引っ張りながら駐車場に向かった。

琴子は車の後ろに立って言った。

「トランク開けて!」

美和子が言われるままに開けると、琴子がすかさず手を伸ばした。

「コッちゃん、それは!」

美和子が止める間もなく、中にあった虫とり網を掴んで、琴子は園庭に向かって走り出した。出口のほうに歩いてくる人の波をぬいながら、琴子は白い虫とり網をはためかせて進んで行った。

 息を切らしながら追いかけてきた美和子は、芝生の中に息を殺して立っている琴子の後ろ姿を見た。他の子どもたちは少し離れたところから、黙って琴子の様子を見ている。琴子の周りには広い空間ができて、周囲には無数の赤とんぼが静かに浮かび始めた。ゆっくりと網を振り上げるとトンボたちが一瞬ゆらめいて、また静かに飛び始めた。

「やーっ!」

琴子は叫び声とともに網を斜めに振り下ろした。そして、網の中を確認すると大声で叫んだ!

「翔子ちゃーん!」

ギャラリーの中に翔子ちゃんの姿があった。ぼーっと琴子を見ている。

「翔子ちゃん!」

琴子はさらに声を張り上げた。翔子ちゃんはゆっくりと歩いて網の前にしゃがみこんだ。

「コッちゃんが押さえてるから、そーっと両手を入れて」

翔子ちゃんは、慎重に網の口から両手を入れた。ブルンと羽が動くたびに、ビクッと体を震わせて驚く翔子ちゃんに、琴子がささやいた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

翔子ちゃんは頷いて、なんとか飛ぼうとするトンボを両手で包んだ。

「はねをせなかで、たたんで、つまむ」

そう呟きながら、トンボを上手に捕まえた。琴子は被せていた網をそっと持ち上げて、翔子ちゃんの顔を見た。翔子ちゃんはトンボを琴子にかざしながら言った。

「アキアカネ!」

琴子の顔が緩んだ。

「アキアカネ?」

見つめ合う二人は声を揃えてもう一度言った。

「アキアカネ!」

「ひさしぶりに翔子ちゃんの笑ってる顔を見たわ」

美和子の隣で凛ちゃんママが言った。

翔子ちゃんはトンボを見せながら、しきりに琴子に話しかけている。琴子はキラキラと目を輝かせながらそれを聞いていた。やがて何度も二人でうなづくと、同時にすくっと立ち上がった。

翔子ちゃんがトンボを持つ手を空に向けて突き上げた瞬間、ブルンと羽音が響いた。放たれたトンボは芝生スレスレに飛び、秋の乾いた風に乗って急上昇していった。


二人の見上げるトンボのいない青空には、ふかふかの雲をまとってこちらを見おろす柔らかな太陽があった。

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