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Angelus(アンジェラス) ー2ー

 振り返りもせずに、お友だちとおしゃべりしながら二階にあがった琴子を見届けて、美和子は駐車場に向かった。登園してくる母親たちとすれ違い、笑顔で丁寧に挨拶する。車に乗り込むと、すぐさま凛ちゃんママからのメールを確認した。

「予定どおり、リバーカフェで待ってるね」

さっき駐車場に入るときに、ちょうど入れ代わりに出て行った凛ちゃんママの黄色いボルボの助手席には俊くんママがいた。非常勤で麻酔科の医師として働いている俊くんママは、いつもはベビーシッターに送り迎えを頼んでいるが、時折お茶会に参加する。どうやら今日の情報交換は三人らしい。美和子はゆっくりと車を出した。

川沿いのカフェの駐車場には黄色いボルボが停まっていた。ほかに見覚えのある車はない。このカフェは、同じロザリオ学院白ゆり幼稚園のママたちはめったに来ない。何よりも、凜ちゃんママはそこが気に入っている。店内を見渡すと奥のテラス席から凛ちゃんママが小さく手を振った。外は日差しが強く、美和子はパラソルの影に座って、2人と同じアイスティーを頼んだ。

「例の話の続き?」

美和子がたずねると、凛ちゃんママは言った。

「うん、ちゃんと詳しく話すね」

私たちは時折こうして子どもが登園したあとに「お茶会」と称して情報交換する。凛ちゃんの二歳上のお兄ちゃんも白ゆり幼稚園を出て、今は同じ附属のロザリオ学院小学校に通っている。凛ちゃんママの耳に入る保護者の噂や受験に関する情報は、ひとりっ子親の美和子とは比べものにならない。

「郵便屋さんごっこは、再開されそうにないね」

残念そうに俊くんママが言った。「郵便屋さんごっこ」とは、年長になって、少しずつひらがなが書けるようになった園児が、お手紙のやりとりをする園のシステムだ。職員室の横にはかわいい郵便ポストが設置されていて、毎日お昼に先生とお当番の園児がお手紙を配達して回るのだ。子どもたちは手紙を出すのも、もらうのもとても楽しみにしていた。

ところが、始まって一か月ほど経ったころ、園から郵便屋さんごっこを中止するとの連絡があった。

原因は凛ちゃんにきた一通の手紙だった。そこには「リンちゃんなんかだいきらい。しんじゃえ」と書かれていた。凛ちゃんはこの手紙を見たとき、ショックで誰にも言えずにポケットにねじ込んだが、迎えにきたママの顔を見るなり声をあげて泣き出してしまった。駆け寄った先生が手紙を見つけて騒ぎが大きくなったのだ。

「いったい誰なんだろうね?」

美和子は、ため息をついた。

「ご丁寧に差出人の名前が書いてあったのよ」

俊くんママの言葉に美和子は目を丸くした。凛ちゃんママが続けた。

「大事なことだから、電話やメールじゃなくて、会って話そうと思ったのよ」

二人の重い様子に、美和子は身構えて凛ちゃんママの言葉を聞いた。

「差出人は『いくた ことこ』って書いてあったの」

美和子は、言葉を失った。娘の琴子は凛ちゃんが大好きだ。一月生まれの琴子は四月生まれの凛ちゃんをお姉さんのように慕っていて、帰りの車の中ではいつも今日は凛ちゃんと何をして遊んだかを嬉しそうに話してくれる。

「たしかに、琴子は凛ちゃんにお手紙を書いたと言っていたわ。でも……」

美和子は、自分の声がうわずっていることに気づいて口をつぐんだ。

凛ちゃんママが、美和子の背中をさすって言った。

「驚かせてごめんね。コッちゃんの名前が書かれていたけど、ちがうってわかってるから」

俊くんママは

「コッちゃんじゃないってこと確認してから話そうって言ってたのよ」

そう言うと三通の手紙をテーブルに出した。その一通は明らかに琴子が書いたとわかるものだ。封筒いっぱいの大きな文字で「たきがわ りんちゃんへ」と書かれた手紙は、「き」という字が鏡文字になっている。これは間違いなく琴子の癖だ。あとの二通は、整った美しい字で、「たきがわ りんちゃんへ」「おだ しゅんくんへ」とある。凛ちゃんママは、美しい凛ちゃん宛の封筒をひっくり返して見せた。そこには、「いくた ことこ」と書かれていた。

「まさか、誰かが琴子に成りすまして書いたってこと?」

美和子は、今回の事件の厄介さに気づいた。

「お友達と喧嘩して、ひどいこと書いてしまったって話なら単純だったんだけど、自分の名前を隠して、凛とコッちゃんを傷つけようとしてるあたりが怖いのよ」

俊くんママは、そう言うと「おだ しゅんくんへ」と書かれた封筒を裏返して見せた。美和子は「早川翔子」と漢字で書かれた名前に息をのんだ。

「うちの幼稚園で、ここまできれいな字を書く子は翔子ちゃんくらいだし、俊くんがもらった手紙と比べれば、鑑定士でなくても犯人は分かるよ」

凛ちゃんママは、ストローでクルクルと氷を回しながらため息をついた。

「学年主任のまりこ先生も、すぐに誰が書いたか気付いたみたい。琴子ちゃんじゃないと思うけど犯人探しは難しいって言ってきたのよね」

美和子は凛ちゃんのことが気になった。

「凛ちゃんには、どう伝えたの?」

「凛にも三通の手紙を見せたわ。コッちゃんじゃないことと、翔子ちゃんのいたずらだと理解したみたい。今は落ち着いてるわ」

 凛ちゃんと俊くんは同じマンションに住んでいて、もともと母親同士が仲が良かった。幼稚園では凛ちゃんと琴子がとくに仲が良いが、問題の翔子ちゃんを含めて他の園児とも家を行き来し、分け隔てなく遊ばせていた。
 園児の多くは年中から大手の受験塾に通っている。翔子ちゃんを含む、この四人の子供たちもそうだ。ところが年長になった頃から、翔子ちゃんは他のお稽古が忙しいといって、まったく遊べなくなってしまった。

「凛とコッちゃんが、いつも遊んでいるのが羨ましかったのかな」

そう言ってうつむいた凛ちゃんママに、俊くんママが言った。

「もっと闇は深いよ。私、塾の帰りに見ちゃった」

それは、4月の年長児童の模擬試験の結果が発表された日のこと。塾の階段を降りようとすると、踊り場で翔子ちゃんママの大きな声が聞こえた。

「成績優秀者は名前が公表されるじゃない? 翔子ちゃんは年中ではいつも上位だったけど、初めて凛ちゃんの名前が出て、しかも翔子ちゃんより上だった。翔子ちゃんママが『いつも遊んでばかりの凛ちゃんに、なんで負けるの』って、すごい剣幕だったの」

翔子ちゃんは泣きながら「ごめんなさい」と繰り返していた。かわいそうなのと、立ち聞きしてしまった後ろめたさで、すぐにその場を離れ、その後も誰にも話せなかった。

翔子ちゃんは、いつもお行儀よく笑顔で挨拶してくれる。「躾の行き届いた子ども」という表現がしっくりくる。その小さな胸のうちに「だいきらい しんじゃえ」と、真っ黒でドロドロした感情を抱えていると思うとゾッとした。

「私は犯人探ししないという園の方針に従う。犯人にされそうになったコッちゃんママはどう?」

凛ちゃんママが、美和子に聞いた。琴子はいまだに小学校受験がなんなのか理解していないふしがある。塾も、お友だちや先生と小学生ごっこをしているつもりなのだろう。とても楽しそうに通っている。こんな話は聞かせたくないし翔子ちゃんを責める気にもなれなかった。

「もういいよ。琴子にそんな話を聞かせたくない」

涙ぐみながら答える美和子の様子を見て、凛ちゃんママが、パンパンと手を打った。

「じゃあ、これでおしまい! お腹すいた、ケーキ頼んでいいかしら?」

メニューを広げて、美和子と俊くんママにも促した。

「ほかの保護者には漏れていなくてホッとしたよ。こんな話、一晩で尾ひれがついて広まるんだから」

俊くんママが、美和子に言った。

 運ばれてきたレモンシフォンパイは、太陽を切り取ったような色をしていて、屈託のない琴子の笑顔を思わせた。

「これ、テイクアウトして琴子にも食べさせよう」

美和子が言うと、「うちも!」と、凛ちゃんママと俊くんママも明るく答えた。子どもたちのお迎えまでには、ザラザラとした悪意をふり払おうとするように。

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