【感想】『ユリ熊嵐』と聖書・1

このテーマについてはいつかまとまったものを書きたいと思っていた。
このアニメを見終わった時の感動は今でも色褪せない。

世界の様々な断絶があらわになってきていた時期に放送されたこのアニメは、ある種の徹底的な「断絶」を描きながらも、その最後には微かな、しかしはっきりとした「和解」の希望を示した。
タイトルで敢えて「聖書」と銘打ってしまったため、その時点でふるい落とされる人がいると思う。しかし、この作品を私が語るとすればこのテーマは避けることができない。
『ユリ熊嵐』は、表面上はコミカルなタッチで、「百合」や学校の中での排他的な空気を描いているが、そこで扱っているものは極めて宗教的である。もっと突っ込んで言えば、そのメッセージは聖書(特に新約聖書)のメッセージを強く踏襲しているように思う。
ここで気付く方もおられると思うが、幾原邦彦監督作品の『輪るピングドラム』もかなり聖書のモチーフが組み込まれている。ただし、こちらでのメッセージは『ユリ熊嵐』とはかなり質が違っていると私は思っている(これについてもそのうち書けたら書きたい)。
今回は『ユリ熊嵐』を、恐らく他ではあまりなされていないアプローチから読んでいきたいと思う。

人間と熊

作中での人間(しばしばユリと表記される)と熊は一種のメタファーとなっている。ここには同胞と異邦人、多数民族と少数民族、異性愛者と性的マイノリティ、男性と女性、いくらでも現実の対立軸を当て嵌めることができる。
まぁぶっちゃけて言えばメタファーがどうとかいう話は好きじゃないし、見たら分かるだろと思うのでこの方向で深堀りすることはあまりしない。けれども、この物語で「断絶の壁」と言われているものが明らかに現実世界の断絶を表していることはしっかり押さえておくべきだと思う。
『ユリ熊嵐』は、決してファンタジーではない。私たちの生きる現実の世界の話だ。
その上で、和解することができない人間と熊という厳しい現実を描きながらも、そこに一輪の花のように咲く小さな希望を描き出している。

ここで一箇所、聖書の言葉を引用しよう。

狼は小羊と共に宿り
豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。
子牛と若獅子は共に草を食み
小さな子どもがそれを導く。
雌牛も熊も草を食み
その子らは共に伏す。
獅子も牛のようにわらを食べる
乳飲み子はコブラの穴に戯れ
乳飲み子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
                     ――イザヤ書11章6~8節

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より

これは旧約聖書の「イザヤ書」に出てくる非常に有名な預言で、クリスマスなどでよく読まれる箇所だ。
この箇所は、いわゆるメシア(救世主)の到来によって世界に訪れる平和の姿を現している。
「狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。」
この言葉に始まる様々な動物、子ども、蛇などの組み合わせはそれぞれが一つの対立軸としてあらわれている。
現実世界では狼が小羊と共に宿り、豹が子山羊と共に伏すなどということはありえない。
何故なら狼は小羊を、豹は子山羊を食べる存在だからだ。

私たちは熊!
熊は人を食べる!
そういう生き物!

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』より

『ユリ熊嵐』1話の冒頭で百合ヶ咲るるのナレーションで語られる言葉だ。
ここで「熊」は「人」を食べる生き物として定義されている。
この作品世界には基本、熊と人しか出てこない。
その中で熊をそのように定義するのはなぜか。
それは、熊と人とがこの世界での大きな対立軸として存在しているからだ。
熊は人を食べる。人は身を守るために、熊を殺さなければならない。
熊と人は断絶の壁によって堅く断絶されている。
けれども、それは一つの方向に向かわなければならない。
それは「狼は小羊と共に宿」るように、熊が人と共に手を取り合うという未来だ。

「百合」というモチーフ

もう一つ、この作品で大きなモチーフとなっているのが「百合」である。
なぜあえて百合なのか?
幾原邦彦監督は以下のように語っている。

幾原 例えば、「愛」について描きたいと思ったとする。今、男女のキャラクターで恋愛を描くのは難しいと思う。「愛」ということ自体が、男女の関係で描こうとした途端に、もう「ネタ」じゃないですか。(中略)でも、百合というジャンルに飛び込んで、メタファーとしていろんなものを表現すれば、愛は非常に描きやすい。現代で愛を描くには百合というジャンルはとても良いな、と思ったんです。

『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』幻冬舎、2015年より

幾原監督は、「愛」を描く上で男女の関係で描いたら「ネタ」化してしまうという。
それは、おそらく男女の恋愛として「愛」を描いたらどうしてもありきたりな「お約束」展開になってしまうということだろうと解釈している。
『ユリ熊嵐』では愛は女性同士の恋愛(要するに百合)として描かれる。
それはもちろん恋愛でもあるが、同時にこれはもっと普遍的な愛のメタファーである。
この作品の中で女の子同士(もっと言えば熊と人の)が恋愛することは、単に恋愛という以上の意味を持つ。
それは狼が小羊と共に宿ることであり、豹が子山羊と共に伏すことである。
牛や熊や獅子が共に同じ草を食べることである。
子どもが蛇の巣穴に手を入れても嚙まれないことである。
「お約束」でない愛がそこにある。

これは、突き詰めれば自分が自分でなくなるということだ。
狼が狼でなくなり、豹が豹でなくなり、蛇が蛇でなくなることだ。
強いものが弱いものから奪うことがなく、弱いものが強いものと同じ地平に立つということだ。
平和とはそういうものだと、少なくともイザヤ書は語っている。
それは、それまで強かったものが弱いものから奪わないでも生きられる、また弱かったものが強いものに怯えずに生きられるようになるということだ。そういう世界にならなければならない。
そして、そのためには、まず自分がそれまでの自分でなくならなければならないのだ。
各々が自分というものを捨てなければ、自分を変えなければ、本当の和解は、平和は訪れない。
そして、自分が自分でなくなるということは、『ユリ熊嵐』のクライマックスで大きなターニングポイントとして起こる。
このことは、後にもう一度しっかりと語りたいと思う。

(続く)

※本当は一つの記事でまとめたかったけど、とても終わらないと思ったので続きます。よろしければお付き合いください。

※なるべく聖書の訳は新しい方がいいと思ったので引用部分を『聖書 聖書協会共同訳』に差し替えました。

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