【感想】『ユリ熊嵐』と聖書・3

前回

本当はもっと短くまとめるつもりだったものが、書きたいことがどんどん増えてこんなに長くなってしまった。一応次回までで終わる予定だが、ここからはなるべくシンプルにまとめる段階に入っていこうと思う。
そこで、前回は作中で語られる「スキ」、すなわち愛について語った。今回は、その反対、悪について少し語りたいと思う。そして、悪というのは、聖書においても重要な問題として語られる事柄である。

二つのスキ

この物語では二つのスキが語られる。一つは、主人公・紅羽やその恋人であった純花が語っていたスキである。このスキは、端的に言えば「神の愛=普遍的な愛」であるということを前回語った。それに対して、もう一つのスキがある。それは、百合園蜜子や箱仲ユリーカによって語られるスキ、すなわち欲望としての愛である。

百合園蜜子は、欲望のスキの象徴のようなキャラクターである。『ユリ熊嵐』9話で、亡霊となって現れた蜜子が銀子を誘惑し、取りつく場面がある。その時に、蜜子はこんなことを語っている。

この世界で本当に信じられるのは友達なんかじゃない。それは私という欲望だけ。スキは凶暴な感情。スキは相手を支配すること。ひとつになりたいと相手を飲み込んでしまうこと。

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第9話より

これは大変象徴的な台詞である。スキはただ純粋で、普遍的であるだけではない。このようにある特定の相手を強烈に求め、相手を支配し、飲み込んでしまおうとするスキもあるのだ。
そして、『ユリ熊嵐』のもう一人の主人公、銀子はこの時、欲望のスキに支配されようとしていた。なぜなら、彼女はかつての紅羽の恋人である純花に嫉妬し、純花が熊(=蜜子)に襲われるのを知っていながら、見殺しにしてしまったからだ。
銀子はこのことから自分を「罪グマだ」という。これは聖書に何度も繰り返し語られている「罪人」の引用である。欲望のスキに囚われた者は罪グマになる。それは、欲望に支配された人間は罪人=悪に堕ちていってしまうという鮮烈なメッセージである。

一方、箱仲ユリーカは、かつて「汚れのないものだけに価値がある。だから汚れのないものを箱にしまっておかなければならない」と教える歪んだ思想を持った育ての親のもとで育てられ、後に捨てられるが、そんな彼女を「見つけた」のが紅羽の母である澪愛であった。こうしてユリーカと澪愛は親友になり、互いに「スキ」と言い合う仲になったが、実は二人の「スキ」は同じ「スキ」ではなかった。
澪愛は結婚し、紅羽を産む。そして、澪愛のスキを紅羽に奪われてしまったと思ったユリーカは、後に逆上して澪愛を食べてしまう。ユリーカは「私は空っぽの箱になった」と独白する。空っぽの箱である彼女は満たされるために大切なものを自分の中にしまわなければならない。けれども、それはいくら大切なものを入れても満たされることのない箱である。

澪愛を食べても、私は飢えたままでした。私のスキマは満たされなかったのです。

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第8話より

欲望は満たされることのない箱である。それを満たそうとして欲しいものを箱に入れてみたとしても、その時その一瞬は満たされた思いがしても、すぐにまた飢えはじめてしまう。ユリーカはまさにそこに陥っていた。欲望のスキに囚われた者は、そうして何度も飢えを満たそうとし、他者から奪おうとする「罪グマ」に堕ちていってしまうのである。

あなたのスキは本物?

この言葉は、人と熊の境界でユリ裁判を行うジャッジメンズによって語られる言葉である。スキには本物と偽物がある。それが、ここまでで書いてきた二つのスキである。
それではこの作品が語ろうとしている本物のスキとは何か?
それは疑いなく紅羽や純花、澪愛によって語られてきたスキ(=普遍的な愛、神の愛)である。
スキは愛であるということを語ってきた。しかし、愛には二種類ある。それは、ただ相手のことを思い、自分を顧みず、むしろ自分を犠牲にしてでも相手に尽くそうとする愛である。もう一つは、ひたすらに相手を求め、相手を支配し、自分のものにしようとする愛である。
どちらが本物の愛か?と問われれば、私たちなら戸惑うかもしれない。しかし、聖書はこれにはっきりとした答えを与える。それは、前者こそが本物の愛であり、これこそが神の愛であると。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書3章16節)」と聖書は語る。独り子をお与えになったとは、世の救いのために愛する独り子(=イエス・キリスト)を犠牲にしたという意味である。そのように、自分を犠牲にしてでも世のために与えるのが神の愛であると聖書は語るのである。
『ユリ熊嵐』で語られるスキも同じである。スキは相手のことを思い、自分を顧みず、むしろ犠牲にして相手に与える。そして、スキは一人の相手に固執しない。
最後にもう一つ聖書の言葉を引用しよう。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
              ――コリントの信徒への手紙一 13章4~7節

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より

私たちはもちろん、神のような愛をいつも実現できるわけではないし、実現しなければならないわけではない。
しかし、例えば恋愛のように特定の一人に向かう愛であっても、上記のような愛を目指すことは大切なことではないか。忍耐強く、情け深く、妬まず、自分の利益を求めずに、相手のために与える。もしそのように一人の人を愛せたなら、それは素晴らしいことではないか。少なくとも、そこに向かおうとすることは無駄ではないはずである。
あなたのスキは本物? とは、私たちにも投げかけられた言葉である。
私たちのスキは自分本位になっていないか、相手を力づくで支配しようとしていないか、相手をすべて自分のものにしようとしていないか。これは、『ユリ熊嵐』を通して、断絶の壁から語られている私たちへの問いかけである。

(続く)

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