【感想】『ユリ熊嵐』と聖書・2

前回

この記事を書くに際して『ユリ熊嵐』を少し見返して、改めてこの作品の構造の面白さに感服させられている。
『ユリ熊嵐』は、主に学校を舞台としている。そして、「透明な嵐」という名で誰か一人を生贄にして全体の結束と安心を作るという、現実の学校の中でまさに起こっている出来事を残酷なまでに描き出している。
前回の記事では主に人間と熊の対立について書いたが、この作品では人間同士の極めて生々しい対立も描かれている。それは、「集団」と「集団からはじき出された者」の対立だ。
これは、極めて現代的なテーマだと思う。しかし、『ユリ熊嵐』では現代的な事柄を扱いながら、その裏ではもっと深く普遍的なテーマを扱うという複雑なことをしている。
今回は、そのことについて少し語りたい。

承認という病

確かこんなタイトルの本が出ていた。
思い返してみると、『ユリ熊嵐』が放送していた当時はちょうど「承認」ということが世の中で口々に言われていた頃だったと思う。承認とは、「1.そのことが正当または事実であると認めること。2.よしとして、認め許すこと。聞き入れること」(小学館『デジタル大辞泉』)である。なぜこの言葉が当時頻繁に使われていたのか。
そもそもこの「承認」という言葉はいつ頃から使われ始めたか。気になったので検索したら、以下のような記事を見つけた。

厳密には「承認欲求」だが、この記事によれば、ネットで「承認欲求」という言葉が頻繁に使われ始めたのは2006~2007年頃で、それがさらにネットスラングとして広く使われるようになってきたのが2010年頃であるという。
ちなみに、『ユリ熊嵐』が放送されたのは2015年である。「承認」とか「承認欲求」という言葉が今でもネット上でしばしば使われていることを考えれば、2015年は「承認」ということが使われていた絶頂期の頃と言っても差し支えないだろう。
なぜそれほどまで「承認」という言葉が世の中で使われたのか。それは、色々と説があるだろうが、おそらく現代人が「承認」に飢えているからだろう。誰かに認められたい、自分には価値があるのだと思われたい。そういう感情は誰しも抱えているものだが、特にそれが表面化したのがこの時代ということだろう。そして、その背景には他者から(特におそらく親や年長世代)から認められなかったという経験が多くの人にあったに違いない。
そういうことで、「承認」ということは現代人の抱える一種の病として認識され、世の中で、特にネット上で頻繁に扱われるようになったのである。

スキと承認の意味

ところで、『ユリ熊嵐』にはこんな言葉が出てくる

クマリア様は愛である。生きとし生けるもの全てを承認し、スキを与える世界の母である。

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第7話より

クマリアとは明らかに「マリア」だが、作中では神的な存在として語られる。
ここで面白いのは、「承認」や「スキ」という言葉が、現代で使われるような一般的な意味ではなく、もっと大きな宗教的な何かを表す言葉として使われていることである。
前回紹介した幾原邦彦監督のインタビューの中で、なぜ百合なのかということについて、こんなことを語っている。
「百合というジャンルに飛び込んで、メタファーとしていろんなものを表現すれば、愛は非常に描きやすい。現代で愛を描くには百合というジャンルはとても良いな、と思ったんです。」(『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』幻冬舎、2015年)
つまり、この作品の中で百合(女性同士の恋愛)はもっと広く普遍的な愛のメタファーなのである。
同じように、「承認」も一種のメタファーである。「クマリア様=神」が愛であり、「生きとし生けるもの全てを承認し、スキを与える世界の母」なら、ここで言われる「承認」とは、明らかに神から与えられる慈愛的な何かの言い換えある。
ちなみに、「神は愛」とは、聖書に出てくる非常に有名な言葉である。

愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。
                    ――ヨハネの手紙4章7~8節

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より

「クマリア様は愛」とは明らかにここの引用である。そして、聖書は「愛は神から出るもの」と語る。それならば、クマリア様が生きとし生ける者を「承認」し、「スキ」を与えるというときも、それらの意味するところは聖書の言う「神から出る愛」である。
神から出る愛は恋愛を越えて普遍的な愛である。そして、神から愛を与えられた人間も普遍的な愛をもって愛するのである。「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。」

そして、『ユリ熊嵐』は、「スキ」と「承認」をめぐる物語である。この作品は熊と人間の対立を描くと共に、学校の中での「集団」と「集団からはじき出された者」の対立を描く。その時、「集団からはじき出された者」である主人公・紅羽やその恋人の純花が言うのは、「私はスキを諦めない」(第1話)。
二人は、自分たちの「スキ」が「承認」されることを求める。しかし、彼女らはその「スキ」のゆえに学校という集団から排除の対象になっていく。
これは、女性同士の恋愛のゆえに学校でいじめを受ける二人の物語である。表面上は。
しかし、上記の言い換えが起こるとしたらどうだろうか。彼女らが互いに思い合っているのは「スキ」という「神を根源とする愛」ゆえであり、また彼女らが切に求めているのも「承認」という「神からの愛」である。そして、そのために彼女らがいじめを受けているとしたら、それはさながら信仰のゆえに迫害を受ける殉教者たちの姿である。(事実、純花はその迫害の末に「殉教」することになる。)

前回も記したが、『ユリ熊嵐』は表面上はコミカルなタッチで描かれる人間と熊の戦い、および学校の中でのいじめであるが、その裏で扱っているテーマは極めて宗教的である。
主人公を含むメインキャラクターたちは言う。「私はスキを諦めない」。
スキは愛である。そして愛は神であり、普遍である。
そして、スキを諦めなかった彼女らがどういう結末を辿っていくのか、それは次回に委ねたい。

(続く)

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