【感想】『ユリ熊嵐』と聖書・4(終)

前回

いよいよこのシリーズも最後という気持ちで書いている。
ここまで書いてきたことを踏まえた上で、この作品の結末が何を描いているかを語りたいと思う。
少し長くなるかもしれないが、ここまで読んでくださった方はお付き合いいただきたい。

スキとは何か

ここまでで散々スキとは何かについて書いてきたが、改めて問いたい。
スキとは何か。
スキは愛である。それも、神(=クマリア様)から与えられる、神を根源とした愛である。
この愛は、誰か一人に固執しない。妬まず、高ぶらず、自分のことよりも相手のことを思い、自分を犠牲にしてでも相手に与える、そのような愛である。
ところで、スキについての印象的な台詞がある。

スキを忘れなければ、いつだってひとりじゃない。スキを諦めなければ、何かを失っても透明にはならない。

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第8話より

この言葉は、『ユリ熊嵐』の作中に何度か出てくる台詞で、この作品のキーワードになるような言葉だ。
スキを忘れなければ、いつだってひとりじゃない。スキを諦めなければ、何かを失っても透明にはならない。
この作品で「透明になる」ということは、他の人たちと同じになるということだ。それは、学校で行われていた「透明な嵐」のように、誰か一人を生贄にして全体の安心を守るという、歪んだ集団の一部になるということだ。
学校では、スキを諦めない人は「透明にならない=みんなの空気を読まない悪」として排除される。いじめの対象となり、孤立させられるのである。
けれども、スキを忘れなければいつだってひとりではない、という。それはつまり、スキ(=愛)を忘れなければ、いつだってスキを共有する友がいる、そして何より、愛そのものであるクマリア様(=神)が一緒にいるということである。
そして、スキを諦めなければ、たとえスキを共有する友が失われたとしても、透明な人々の中で、誰かを犠牲しなければ安心を守れないような人間にはならないのである。
スキは私たちを特別にするのである。他のみんなに合わせ、空気を読み、透明になることで生きる人間ではなく、たとえ他の人から疎まれ、蔑まれようとも、愛に生きる人間に変えるのである。

本物のスキ

『ユリ熊嵐』最終話のクライマックス直前、紅羽と銀子は透明な嵐によって追い詰められ、銃を向けられていた。紅羽が熊である銀子の友達であることを認めれば、紅羽も排除される。
その時、紅羽はジャッジメンズのユリ裁判に立って告白する。幼かった自分は、かつて友達であった銀子を人にすることを願ったと。その時、熊である銀子を人にすることは傲慢の罪であると指摘される。しかし、紅羽は熊であることより人になることの方が幸福だ、こうすることが正しいのだと信じ、自分のスキと引き換えに銀子を人にしてしまったのである。そして、その結果、紅羽は銀子のことを忘れてしまった。
しかし、それを思い出した紅羽は、ジャッジメンズの前で告白する。自分が銀子を人にしてほしいと願ったことは傲慢の罪であったと。そして、自分は銀子を忘れ、入って行った透明な嵐の中で純花と出会って、純花から本物のスキを教えられたのだと。

もう、怖くない。スキを忘れなければ、いつだってひとりじゃない。スキを諦めなければ、何かを失っても透明にはならない。だから、私は、嵐の中に飛び込む!

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第12話より

紅羽が銀子の友達であることを否定することは簡単であった。銀子も紅羽を助けようとして、自分は紅羽の敵だと証言していた。
しかし、もはや紅羽はそうすることを選ばない。本物のスキを見つけたからである。本物のスキは、透明になって、自分を守るために誰かを犠牲にしようとなどしない。本物のスキは、友達のためにむしろ自分を危険の中に晒して、嵐の中に飛び込ませるのである。

私を熊にしてください

そして、紅羽は大きな決断をする。クマリア様に向かって、高らかに願うのである。かつて願ったような、友達の熊を人にするような願いではなく、自分自身が熊になるという願いである。
私は第一回目の記事で、熊と人は一つの対立軸を表すということを書いた。これは、現代の人種、民族、性別、性的指向など、現代の多くの対立軸を当て嵌めることができると。
そして、『ユリ熊嵐』はその上で、熊と人という相容れない種族が和解する希望を描いている。
ここで、第一回で引用した聖書箇所をもう一度引用したい。

狼は小羊と共に宿り
豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。
子牛と若獅子は共に草を食み
小さな子どもがそれを導く。
雌牛も熊も草を食み
その子らは共に伏す。
獅子も牛のようにわらを食べる
乳飲み子はコブラの穴に戯れ
乳飲み子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
                     ――イザヤ書11章6~8節

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より

これは、聖書が提示する「和解」の姿である。
「狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。」
本来ならばあり得ないことが起こる。狼は小羊と共に宿らない。なぜならば、狼は小羊を食べる存在だからだ。
しかし、この「和解」が起こる時、それは変わるのである。狼は食べる存在ではなくなる。小羊も食べられる弱い存在ではなくなる。これは、「自分が自分でなくなる」ことだ。本当の和解とは、それぞれが自分を捨て、自分でなくなるときに起こるのだ。
聖書の「イザヤ書」では、それはこの世の終わりの時に起こると言っている。しかし、それでは今、この現実では起こり得ないのか。『ユリ熊嵐』はそうではない可能性を見せている。少なくとも紅羽はそれを体現している。
熊を人に変わらせるのではなく、自分が熊に変われば、熊と人との垣根は越えられるのだ。相手を変えさせるのではなく、自分を変えることで、私たちは和解に近づくことができるのだ。ここで示されているのはその希望である。
純花の姿で現れたクマリア様は紅羽の願いを承認し、紅羽は熊になり、銀子との約束のキスを果たした。

一方、それを見ていた「透明な嵐」の少女たちは怯えだす。「人が熊になるなんて!なんておぞましいの!」
彼女たちの動揺と怯えは、一面的に見れば人が熊になったという事実に対する怯えである。しかし、これにはもう一段階ある。それは、熊が人になり、人が熊になれるということは、熊と人は本当はそんなに変わらないのではないかということに気付いた「怯え」である。
これは人間同士でも同じである。敵対している間は気づかないのだ。実は敵対していた相手は自分と同じ人間であって、自分が今まで傷つけ、殺してきた相手は自分と変わらない存在であると。
「透明な嵐」のリーダー蝶子は再び周りを鼓舞し、あれは熊だ、敵だと叫び立てる。少女たちも震えながら銃を構える。

迷うな!考えるな!撃て!

(C)2015 イク二ゴマモナカ/ユリクマ二クル『ユリ熊嵐』第12話より

これはリーダー蝶子の叫びであるが、まさに現代の私たちの間で叫ばれていることではないか。
敵ならば迷うな。考えるな。
相手を敵だと思うなら考えてはならないのだ。相手も自分と同じ人間なのではないかとか、自分と同じような歴史や事情があるのではないかなどと考えてはならないのだ。そうでないと、敵を撃つことはできないからだ。これは、現代のあらゆるところで起こっている対立の中で共有されている論理ではないか。
銃声が次々となり、辺りが硝煙で包まれる。その中で「透明な嵐」の一人の少女が驚くべきものを目にする。それは、紅羽と銀子が大きな階段を登ってクマリア様のところへと導かれていく姿である。

見つけたよ

かくして、「透明な嵐」は熊に勝利し、彼女たちの平和は取り戻された。彼女たちはそれまでと同じように自分たちの中から生贄を選び出し、排除する儀式を始める。その中で、一人抜け出して、外に出る少女がいる。紅羽と銀子がクマリア様のもとへと上げられる姿を見ていた少女(亜依撃子)である。
彼女は、かつて蜜子によって撃ち殺され、改造されて兵器にされてしまった、このみという熊を操縦していた。しかし、紅羽が熊になる姿を見たとき、彼女も、またこのみ(メカこのみ)も、紅羽たちを撃てなくなっていた。
そして、少女は「透明な嵐」の外側で、不良品として捨てられたこのみを見つける。そうして、少女とこのみは手を合わせ、二人は互いに抱き合う。再び熊と人の和解の希望が芽生えた瞬間である。

私は、この場面を見ると、いつも思い出す聖書の場面がある。それは、イエス・キリストの物語のクライマックス、イエスが十字架にかけられ、息を引き取る場面である。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
(中略)
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
                 ――マルコによる福音書15章33〜39節

日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より

イエスは神の子である、というのは、新約聖書に収められる「福音書」に一貫して語られるメッセージである。そのクライマックスシーンにおいて、イエスは敵対者たちの謀略によって無実の罪を着せられて、十字架刑で死んでいく。その時には、信じてついて来た弟子たちにすら見捨てられ、誰からも「神の子」とは信じられないまま死んだ。
しかし、イエスが息を引き取った直後、それを見ていた百人隊長(イエスを十字架に付けたローマ兵たちの隊長)が、イエスの死の姿を見て「まことに、この人は神の子だった」と言うのである。
彼はイエスとは何も関わりのなかった人物で、むしろイエスのことなどさっさと殺してしまえと思っていたであろう。しかし、その彼が、誰からも見捨てられ、「神の子」とはとても似つかわしくない死を遂げたイエスを、「この人は神の子だった」と言った。
新約聖書によって語られるキリスト教の「福音(=Good News)」はまさにここから始まると言ってもいい。誰からも信じられないまま殺されていったイエスが、たった一人の百人隊長によって「神の子」と信じられたその瞬間から、イエスを「神の子」=救世主と信じる、キリスト教の歴史が始まる。ここから広がっていくのである。「福音」とは、いつもこのように誰からも信じられず、否定される中で、小さくひっそりと始まっていくのである。

『ユリ熊嵐』でも、同様の「福音」が語られる。紅羽と銀子が「透明な嵐」の少女たちの銃撃を受け、「犠牲」となった瞬間、それは始まる。その時、たった一人、クマリア様のもとに導かれる紅羽と銀子の姿を見ていた少女は、熊と人との間をつなぐ新しい希望として生まれ変わる。
断絶の壁を背景として抱き合う少女とこのみ。この場面には、確かに熊と人との和解の新しい希望が芽生えたことが表されている。
世界は何も変わっていない。熊と人は依然として壁によって断絶されていて、互いに憎み合い、熊は人を食べ、人は熊を殺す。
しかし、ひっそりと、本当にひっそりと、和解の希望は芽生えたのである。そして、これからも続いていくのである。それが『ユリ熊嵐』の中で示された「福音(=Good News)」である。

おわりに

私は『ユリ熊嵐』はこの結末に向かうために描かれていたように思う。この小さな、しかし確かな希望を描くために『ユリ熊嵐』は作られたのだと思う。
これは、極めてリアルな希望の描き方である。世界は私たちが望むように、劇的には変わらない。和解や平和というのも、決して私たちの目に見えて大きな姿では現れない。人は相変わらず憎み合い、争い、断然を繰り返す。
しかし、それは小さくひっそりと始まっているのである。きっと今もどこかで、私たちの誰も知らないところで、既に希望は芽生えているのである。『ユリ熊嵐』が示しているのは、そういう希望である。
それでも熊と人は手を取り合う。スキは繋がれていく。たとえ断然が続くとしても。
同じように、人は人を愛することをやめないであろう。愛し合うことをやめないであろう。たとえ世界が断絶と争いに満ちていたとしても。
希望は繋がれていくのである。それは、いつだって、どこか私たちの知らないところで、ひっそりと起こり続けているのである。そう信じていてよいのである。『ユリ熊嵐』を見ていて、そのようなことを感じさせられるのだ。

(了)

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