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子どもの権利と暮らし

暮らしと子どもの権利との距離


今わたしの「子どもの権利」に関する興味関心事は、大きく分けて三つある。

ひとつは「トー横キッズ」のような、行き場のない少年少女の問題。子どもの貧困や性の問題。

ふたつめは学校給食の質や無償化にまつわる問題。公教育の問題に含まれる。

みっつめは子どもたちの未来、地球そのものの未来にまつわる問題。

みっつめについては、とりたてて「子どもの」というより「わたしたち」の問題でもある。そしてわたしは今「子どものころからずっと願ってきたことを続けている」のだと感じることがある。

ありがたいことに、今世界がSDGs、持続可能な社会への姿勢を持ち始めていることで、ただ暮らしているだけでも「社会的存在意義」を持つ事業とかかわることができる。その一翼が担える人間でありたいとも願い学んでいる。

こういう考え方はちょっと前なら「右派」とか「左派」みたいな考え方だったけど、実は右も左もない。未来があるかないかだけの分岐点しかない。そして人間はやはり、未来がある道、未来を作るしかない道を歩んでいる。

今政治は「やってもやっても信頼が得られない」時代になっていると思うが、正直言って未来を語れない方々が政治の世界にのさばってる間は誰の支持も得られないだろうと思っている。

政治は真剣に若返らなければならない。

どのくらい若返る?

わたしは被選挙権をぐっと下げてでも未来ある若者たちに政治を明け渡すべきだと考えている。もちろん若者たちの中にも、短絡的で、持続可能な社会のことなんかまったく興味関心がないものたちがいるだろう。

そういう人は普通に政治に触れなければいい。無理に参加しなくてもいい。未来を築きたい人だけが政治に触ればいい。自然なことだ。

ただひとつだけ必要な法律がある。立候補するとき解雇してはならないことを、法律で定めるべきだ。立候補する覚悟はある程度必要だが、生活を何もかも失ってまで自分の努力だけでは結果が出ないたった一回の選挙に個人の未来をゆだねるのも変な話だ。当選した後のことは会社とよくよく話せばいいが、落選したらたちまち無職のようなリスクを被選挙人に与えてはいけないと思う。

そうして若者が「それなら選挙に出るのも悪くないかな」という条件を整えられたら、若い声がようやく政治に反映されはじめる。当事者の声が社会に響き始める足掛かりになるだろう。

世取山洋介先生の思い出

先日、東洋大学で開催された「子どもの権利条約総合研究所公開研究会」に出席してきた。

どうしても行きたかったのは、国分寺の中学校給食があたたかくないことは、子どもの権利の侵害だと考えていて、「公教育であるなら子どもの権利を大切に」という角度から、あたたかい中学校給食の実現に近づけないかと考えたからだ。

わたしが公教育と子どもの権利条約と関連があることに気づいたのは、亡くなった世取山洋介さんを、国分寺に招いたことが大きなきっかけになっている。

新潟大学准教授だった世取山洋介さんは、子どもの権利研究の第一人者で、お顔はコワモテだったけど、子どもたちや、子どもたちに直接かかわる仕事をする人たちへの視線はとてもあたたかく、お話は印象に残っている。

日本の教育水準は決して低くはない。それを支えているのは、教育費などの予算が低いにも関わらず、現場の職員(幼児教育から高等教育まで)たちの不断の努力に支えられている。子どもの権利を実現するには「ねえ」といえば「なあに」とこたえられる大人が必要で、現場の大人たちはこの理念をもって実際仕事をしているので、一定の水準を持てているというのが日本の現状だろうと、分析。そのうえで、公的な機関はこれを現場の個人の力にゆだねるのではなく、モノとカネを提供する責任を果たすことが、子どもの権利の実現の第一歩である。

ざっくりいうと、このようなお話で、わたしたちは励まされた。

それは公立保育園の民営化や、学校給食調理員民間委託など、子どもの予算が大幅に削られようとしている中でのお話だった。

それでわたしは、今、国分寺の中学校給食をあたたかく!という願いを実現するために、世取山さんの亡きあと、子どもの権利について、子どもたちやそれにかかわる働く人、そして市民の声を大切に思ってくれる知識人集団をわたしは探し求めていて、それで、たまたまフェイスブックのおすすめ記事で知ったこのイベントに参加してきたのだった。

子どもの権利は4つだけ?

「子どもの権利条約総合研究所公開研究会」報告は、東京経済大学現代が法学部の野村武司教授と、子どもの人権連平野裕二代表委員によって、「子どものオンブズパーソン/コミッショナー」の調査がテーマ。

それってなにかといえば、子どもの権利が守られているか、独自の立場から監視し、必要な改革の提言や勧告をおこなう機関で、この設置も子どもの権利条約の義務のひとつに位置付けられている。細かくわけると、政策の提言をするのか、個別の事象に対応するのかの違いがオンブズパーソンとコミッショナーにはあるが、少なくともどちらも形骸的な組織ではない。

ところで、「子どもの権利」には四つの権利ということが日本ではユニセフの説明が分かりやすいということで、よく引用される。
①差別の禁止(差別のないこと)
②生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)
③子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)
④子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

今回の報告の中で、「子どもの権利はこの四つの分類でいいのか?」という提案があり、大変印象に残ったので紹介するが、問題の理由はふたつある。

ひとつは「権利は4つしかないわけではない」こと。これは四項目なのではなく、お互いクロスし補いあい、それぞれの条文からの特徴を並べているという解釈で考えるべきということ。もうひとつ、特に誤解を生じやすい四つ目の「意見表明権」について。

子どもの権利条約12条はこのように記されている。

第12条 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。 この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする

子どもの権利条約

つまり、意見を表明する権利というのは、言った意見は決して否定されず、発言を真剣に受け止められる権利であるという点を、わたしたちは忘れがちになる表現であるという注意だ。

例えば国分寺の中学校給食で、現に「お母さん、まずいから自分ちでお弁当を作ったのを持ってくよ。お母さんが作るの大変だったらぼく自分で作るからもう学校の冷たい給食は食べさせないで!」という声があがっている。

しかし、子どもたちの「おいしいおいしくないは主観でしかない」「栄養が計算され食べられるものは文句を言うべきではない」「試食会に行ってみたが案外美味しかった」という、大人たちの声で、中学生の声はもみ消されてしまう。

果たして子どものうったえは真剣に受け止められているのだろうか?

国分寺の中学校給食は、学年が上がるごとに喫食率が落ちているので、少なくとも家庭においてそういうお子さんの声は「家から持っていく」という形ではかなえられている。

しかしあたたかい中学校給食が提供されるという意味では、無視されている。(そもそもアレルギーや宗教食の対応はないので、厳密な意味の全員給食でもない)

研究会の中ではアイルランドとスコットランドの取り組みが紹介される前に、かなり丁寧に子どもの権利とはなにかを解説された。

スコットランドやアイルランドのことだが・・・

さて、研究会の本題はこの項目なのだが、実はわたしはこの部分は主催者が発信するものにゆだねたい。
平野さんのnoteがすばらしい。

国会で「子どもコミッショナーを設置する根拠」について話される野村さん

政治が若返るためにも子どもコミッショナー制度は必要

雑な引用で申し訳ないが、スコットランドでもアイルランドでも、子どもたちが国中のあちこちから集まって、子どもたち自身の困りごとや課題について話し合っている。

日本の現状を見ると、日本は子どもの権利条約をどこまで政治に(つまり実効的に暮らしに)活かせるか考えたとき、ほとんどが自治体、こと市町村レベルの自治体に委ねられている。これは細やかな点に配慮できやすい一方で、自治体の予算に限りがあったり、首長の判断や政治的理念で大きく差が出て結果的に「差別的な状況」に子どもが置かれる場合がある。

前の前あたりの首相が「困ったときは子ども食堂の大人にたすけてもらってください」と、わざわざ回覧板用の文書を全国にばらまいて大炎上したが、正直わが町に子ども食堂にまつわる補助金のような制度すらあったかどうか怪しい。もちろん公的にも設置されていなかった。

しかし自治体子どもオンブズマンが設置されている自治体もある。上記で国会で参考人として発言された野村教授も、中野区や国立市の子ども人権関係のお仕事をされてきた。

東京経済大学って国分寺にあるのに市長はご存じなかったのだろうか。国分寺も子ども若者計画という分厚い文書は作ったが、そこに子ども自身の声を反映する会議が設置されていたか記憶にない。たぶんない。

研究会の話に戻るが、そこで提案されたのが、東京都のような大きな都道府県や、国にこの自治体レベルのオンブズマンやコミッショナーと連携したコミッショナーを設置することを法律で定めることだ。自治体レベルでこういうものが設置されている例は、逆にアイルランドとスコットランドにはなく、むしろここで国で情報を統括できれば、法的にも予算的にも子ども自身の困りごとに対応する法律を充実させ、個別の対応にも即効性がある取り組みができるようになる可能性があるからだ。

そして、もちろんこのコミッショナーに子どもたちが参加することを保証されることで、子どもは発言や発信、そして自分たちの意見を受け入れられる経験をふまえて成長し、社会を築く一員としての実感と確信、そして未来の希望や他者への思いやりをもって成長できる。

そういう壮大な計画となるのである。

そこで冒頭の「政治には若者の声が必要」という話になる。

わたしたちは、若くて経験のない人たちが物事をすすめることは正直怖い。しかし手法についてもし心配事があるなら、それは大人の知恵として多少手助けすることがあるにせよ、もしも知恵や経験がないからといって願いまでつぶされるなら、子どもや若者の願いはどこへ行ってしまうのか。そこに日本や地球の未来はあるのか?

確かに瞬間瞬間で見たら、家にも地元にも居場所がないから、トー横に来るかもしれない。そこには仲間がいるかもしれない。でももし、家や地元に「あなたにここにいてほしい」といってくれて、自分の力をいかす仕事があったなら、それらを捨てて子どもたちはトー横に来るだろうか。

あそこに集まる理由はひとつ。

そこにしか居場所がないからだ。

都庁がある新宿で。

国会議事堂がある首都東京で。

彼らはごみのつむじ風に巻かれてあそこに集まっている。

そしてそれを救済しようとするていの大人たちは、今民間のボランティアが主軸で、性的な暴行や薬物投与などで逮捕されたり、支援者への支離滅裂な妨害で支援の手が断たれたりしている。

公的な何かが絶対に必要だ。ひとつひとつへの事象への対応も必要だが、もっと根本にコミットする制度を、先進国であるなら作るべき。その確信をふかめた研究会で、本当に参加してよかった。

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。