203万円で買った1ヶ月の愛(4)
ただれるほど甘い愛
これほど大量のロマンチックな台詞は、脳みそのどこにストックされているのだろうか?
と感心するくらい、彼はロマンチックな台詞の宝庫だった。
ある時、わたしは言った。
「うちのお母さんはいつも、わたしが結婚できたらいいなって言ってた。わたしが結婚したら安心だって」
「もちろん僕は君を一生大切にする。決して辛い思いはさせない」と彼は言った。
いちいち大げさだなと思った。でも嬉しかった。
「だけどうちのお母さんは、わたしの性格は結婚に向いてないって言うの」
「結婚した後は二人の生活だよ。互いに理解し合って、支え合って、二人で暮らしていこう」
そうか、二人で独立した生活ができるのか。二人の意思で決めていいのか。思いもしなかった。
何か新しい扉が目の前にあるような気がした。
「君のように思いやりがあって心の温かい女性を育ててくれたご両親に感謝するよ」
相変わらず感動的だ。いまだに慣れない。
「こないだ、仕事が忙しすぎて頭痛がするって言ってたでしょ。薬は効いた?」とわたしは尋ねた。
「もう大丈夫だ。心配いらない」と彼は答えた。
「寝つけないって言ったけど、最近はどう?」
「大丈夫だよ。頭痛が治ったから、ちゃんと眠れる」
「あなたが、仕事のプレッシャーで頭が痛いとか眠れないとか言うから、心配だよ」
「その言葉だけで疲れが取れるよ。こんなに僕を思ってくれるなんて嬉しい。この何億人もの人の海の中で君を見つけることができた。君のような心優しい恋人を得ることができて本当に幸せだ。これから僕らの生活は甜蜜(日本語に訳せない。ラブラブな感じ)だ。待っていてくれ。僕は仕事を片付けて、君に会いに行くから」
徹底的にロマンチックだ。こういう台詞をどこで訓練したのだろうか。どう考えてもわからない。
しかも尽きることのない泉のように滔々と出てくる。
「中国女はこうやって口説け」という指南書があるのか?
あるいはChatGPTを使っているのか?
ともあれ、会ったこともない女を相手に、彼はどうしてここまで夢を描くことができるのか、全く理解できない。話せば話すほど彼を遠くに感じる。
知り合って間もない頃のわたしは「わたしもあなたが恋しい」などと言っていたが、3週間ほど経過し、依存しつつもかなり冷静さを取り戻していた。
「なんで会ったこともない人間にそこまで深い感情を抱くのかわからない」とわたしは尋ねた。
「もう、君がいる生活に慣れてしまったからだ。君という存在が僕の中で日に日に重くなっていくんだ。もし急に君と連絡が取れなくなったらと想像するだけでも怖い」と彼は答えた。
彼にはシナリオがあるのだろう。
でもわたしはシナリオではなく生身の人間と直に会って話をしたかった。
夢想の限界
「僕のお母さんが君に会いたがってるんだ。そのうち一緒に中国に帰ろう」
日本には結納という風習がある。近年は省略されることも多いが、中国にどういう風習があるのかは知りたい。わたしは中国で彼のお母さんに挨拶するにあたり、何か準備が必要なのか尋ねた。
「何も準備しなくていい。中国では、新婦が初めて男性側の家を訪れるときにお祝いのお金を渡す風習がある。でも女性側の家は何もしなくていい」
本当に何もしなくていいのか。わたしは結納が何か説明するのがめんどうなので、母のせいにすることにした。
「うちの母は礼儀を重んじる人だから、何もしなくていいと言われても、きっと気にすると思う」
彼は少し考えこんでから、こう答えた。
「じゃあ、一緒に中国に来ればいい」
「うちのお母さん仕事休めないんだよ」
「僕が日本人のどういうところが嫌いかわかるか?」
「何?」
「家族より仕事を重視するところだ」
中国人のそういう価値観は当然わたしも知っている。中国人にとって最も大切なのは家族だ。
しかし、彼の言葉を見た瞬間、いろいろなものが積もり積もっていたわたしは、ブチ切れた。
わたしが彼に会いに行くと言えば、彼は道中が心配だからやめてくれと言う。自分が行くから待っていてくれ。
そんな生活が1か月。
面識のないまま、どんな人生設計を立てることができようか。
結婚するならいろいろなことを話し合わなければならないのに、わたしは不安だらけだった。
わたしの不安は怒りという形で爆発した。
「あのさ、うちのお母さんは経営者なの。従業員の生活抱えてんの。休めるわけないでしょ。そもそも父が32年前に開いた店なんだけど、父は経営を理解してないから、母がやらざるをえなかったの。母には自分の責任があるの。この32年、わたしと母の二人で支え合ってきたの。この32年の歴史をあなたは否定するの? この日本人の責任感をあなたは否定するの?」
「君たち親子のことを言ったんじゃない。どう言えばわかってもらえるかな。僕は、日本人に対する自分の考えを言っただけだよ」
「じゃあ、うちの母とわたしは日本人じゃないの?」
「君たちのことを言ったんじゃないんだ」
「でもうちのお母さんは仕事があって中国には行けないって言ったから、あなたは日本人のそういうところが嫌いだって言ったんでしょ」
彼はもともと機転が利いて楽しい会話のできる人だった。しかし今は違った。わたしがいろんなことでブチ切れるので、彼の態度はわたしに合わせて変化していた。彼がわたしを笑わせようとして冗談を言っても、わたしは乗らなかった。どう考えても、彼がわたしと一緒にいて楽しいとは思えなかった。
わたしはそれについて話したかった。
彼が、わたしの思っていることをすべて言ってくれと言うので、わたしの独演会になった。
わたしは彼の返事を聞きたかった。彼の考えを聞きたかった。
だけど彼は話し合うことすらせず、「わかった」と一言残し、連絡が取れなくなった。
失恋
会ったこともないくせに、彼は絶対にいなくならないと思っていたことに気づいた。
ちょうどその頃、例のアプリを通じて、気さくで年齢が近い中国人女性と知り合った。わたしは彼女に相談した。
出会って二日でプロポーズされたんだけど、これは中国では有り得ることなのか。
彼女は即答した。
「そのスピードでプロポーズはありえない。だってお互いのことをまだ知らないじゃない。彼はあなたを好きすぎて離れられないとか、そういう理由でプロポーズしたんじゃなくて、違う目的があったんじゃないかな。その目的が何かはわからないけど」
この言葉を聞いてわたしはかなり気が楽になった。やっぱり日中文化の差ではない。あいつがおかしいんだ。
彼女の言葉を手掛かりに考えると、彼の目的は結婚だった。彼は結婚というものに強烈に憧れていた。そのためにわたしを口説き倒した。しかしわたしは結婚の意思表示をしなかった。これ以上わたしに労力を割いても徒労に終わるリスクが高い。だから消息を絶った。だったら理解できる。
この1か月、毎日彼と連絡を取り合っていた。わたしは家に帰ったら彼にLINEを送るのが日課になっていた。仕事が終わって家に帰ったら話し相手がいる。それは重要なことだった。生活の中に彼は存在した。
それが急になくなった。
目を閉じれば、彼の洗練された甘い言葉ばかり蘇る。
ゆるゆると、のろのろと、時間だけが解決していくのだろう。
ヤバい。わたし今日マジで何もやってない。何も手につかない。本も読めない。新聞も読めない。教材も作ってない。メールに返信すらしてない。
37にもなって、こんなわけのわからない恋愛をして、失恋して、こんなに落ち込むと思ってなかった。
もうわたしの睡眠や食生活がどんなに不規則でも怒る人はいない。
毎日毎日言ってくるし、細かいし、いる間は鬱陶しかったけど、本気で怒ってもらえたことが嬉しかったと今は思う。「君がそんなに自分を粗末にしていることが悲しい」と言ってくれた。仕事以外で、わたしという人間を、あんなに強く求められたことはなかった。自分は生きている意味があるような気がした。
わたしの友達や恩人に「わたしはこんなに素敵な人と結婚して幸せになりました」という報告ができなくなった。
それが悲しい。
家の外ではくちなしの花の時季が終わろうとしている。
むせるほど強い、甘い香り。
例の中国人女性には、「早く忘れなよ」と言われる。
そりゃそうだ。奇妙な恋愛だった。
「そうだね。いつまでも考えてたら時間の無駄だよね」とわたしは笑って答えた。
終わってから起きたこと
彼の真の目的
わたしが彼の真の目的に気づいたのは数日後だった。
彼の指示で開設した暗号資産取引所のアカウントから、お金を引き出せなくなったのだ。
取引所の公式LINEによると、お金を引き出すためにはデポジット70万円が必要で、しかも165万円の利潤があるため33万円を納税する必要があると言われた。この取引所を通じて日本に所得税を納税できると言う。
わたしは、利潤の20%を納めなければならないことは知っていた。でも暗号資産取引の確定申告ってどうやるんだろうメンドクセエと思っていたので、これはありがたい話だった。
わたしはお金を引き出したかったから、指示された金額を暗号資産で送った。
しかし、その後も、お金を引き出すことはできなかった。
公式LINEに問い合わせても返事がなかった。
彼が消息を絶ったのは、指示された金額をすべて送った後だ。
投資や金融に詳しい日本人の知り合いはいないが、中国人の知り合いは一人いた。だからその人にわたしは相談した。
「まずい。詐欺かもしれません。すぐに警察に行ってください」とその人は言った。
早速警察に相談した結果、実在する取引所Cryptoを精巧に模して偽造されたものだと判定された。公式LINE自体も、実在するCryptoとは無関係であろう、と。
「暗号資産はその名のとおり暗号で、追跡できないため、犯人を突き止めるのが非常に難しい。また、恐らく海外を拠点に活動しているので、捕まえることはできない可能性が高い」と言われた。
それから、相談届と被害届という二つの選択肢を提示された。相談届は単にこういう被害がありましたという事例報告、被害届は捜査をするためのもの、とわたしは認識した。
わたしは被害届を選んだ。
わたしは用済みの存在である。恐らく彼は二度とわたしの前に現れないし、捕まえることはできないが、できるほうに賭けた。泣き寝入りしたくなかった。お金を返してほしかった。
わたしが失ったのは総額203万円である。
高学歴ワーキングプアの年収を丸ごと失った。
詐欺被害届を出したことで、この奇妙な恋愛に対する執着が消えた。
今なら全て納得できる。
なぜ彼は滔々と愛を語っていたのか。
なぜ彼は非常識なまでに性急だったのか。
なぜ彼はボイスメッセージではなく文字のやり取りばかりだったのか。
なぜLINEアカウントが変わっても、前のアカウントのトーク内容をコピーできたのか。
なぜ彼はわたしが東京に来るのを拒絶したのか。
なぜ彼は忽然と姿を消したのか。
詐欺のからくりを知った後で考えると、なぜ見抜けなかったのか、バカとしか思えない。
ここまでバカになれるほど、わたしは結婚したかったのか。
こんなに陶酔していたのか。
こんなに憧れていたのか。
あんな言葉だけの愛に。
彼が演じたものも、わたしが彼に投影した自分の夢や希望も、全てが虚像だった。
彼、というよりも彼を演じている組織はきっと、まだあのアプリ上にいる。違うアカウントと違うプロフィールと写真で存在している。そして、中国語が通じる獲物を探している。
中国でもネット恋愛で騙される女性は少なくないと聞く。恐らくは中国国内と、その他の中国語圏でも暗躍しているに違いない。
わたしの友達
わたしのアプリ上の友達に、中国の男子高校生がいる。
恋愛に憧れるお年頃のせいか、この子はふざけてわたしを口説き始めた。非常に微笑ましいと思いながら喋っていた。
この子にわたしが失恋した話をするつもりはなかったのだが、会話の流れで話すことになった。詐欺の件は伏せた。
すると、この少年は言った。
「彼はあなたを本当にちゃんと愛してくれたの? 大切にしてくれたの? ネットでは伝えきれない思いもあるから、リアルで会うことが大事なんだと思う」
わたしの言いたいことをこれ以上なく的確に言い当ててくれた。
やっぱりそうだよな。
LINE上で彼が語ったあのシナリオは不自然だった。
わたしは詐欺事件について、ほんの数人にしか打ち明けていない。そのうちの一人が、「彼は違う目的があったんじゃないかな」と言った中国人女性だった。詐欺について話すと、「怖い! 本当に違う目的があったんだね!」と彼女は驚いた。そして、「同じ中国人として恥ずかしい」と言った。
「警察に行ってください」と助言してくれた中国人は、「取引所を偽造するなんてことができるのか。腹立たしい」と言ってわたしの憤りを代弁してくれた。そして、「自分もお金を盗まれた経験があるから、あなたの辛さはよくわかる。人に話すと少しは気持ちが楽になることもあるだろうから、苦しい時はいつでも言ってほしい」と。
これらの友人の存在がわたしを支えてくれている。
ついでに書くと、
「中国人を信用しちゃダメだよ! って言ってる僕も中国人だけどね! 僕は中国人にお金を貸したけど全然返ってこない!」
と助言(?)してくれた人もいた。
どういう国だ。と思うと同時に、中国で生きることは容易ではないのだろうと思った。一方は騙すために、もう一方は騙されないために、知恵を絞りタフに生きるしかない。
最後に
本記事には、中国および中国人を貶める意図は一切ない。
中国人と実際に接して不快な経験をした日本人が少なからず存在することは、もちろん承知している。
しかし、一部の卑怯な人間の行為をもって全体が卑怯であるかのように誤解されてしまうことを、わたしは最も懸念する。
願わくば、これ以上の被害者が生まれないよう。
日本の女性も中国の女性も、同じ悲しみを味わうことが二度とないよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?