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自分でも分からない言葉の正体

SNSに投稿しては反応のないことを己の承認欲求が承認してくれない。
アプリを開いては更新ボタンを押し、通知がないことをわざわざ確認して溜息をつく。
次の投稿をする前にもういっそアカウントごと消してやろうかというやる気だけは出してみる。
スタバで何を飲むにもショートサイズの私はケチで小心者。

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰が己の凡てだったのだ。」

ツイッターでリツイートされていた文章が目に留まり、嗚呼まさにこれは自分ではないかと思いながらいいねボタンを押した。
中島敦の『山月記』は中学時代に教科書に載っていたが、10年以上経ってこれほどまでに突き刺さるなんて当時の私は知るはずもなかった。

この感覚に既視感を覚えて過去の自身のツイートを遡れば、『7月24日通りのクリスマス』を観た日の呟きに辿り着く。

「どんな花が咲くのかなぁ、種まいてないけど。試験に合格するといいなぁ、受験してないけど。宝くじ当たらないかなぁ、買ってないけど。」

映画の主人公はほとんど自分だったので(もちろん中谷美紀の美しさからは程遠いが)、忘れないように台詞を引用したのだ。
そして今も同じように、表現するにあたり周りの目ばかり気にして何もできずに足踏みを繰り返している。

初歩で躓き、継続するのを恥と感じる弱さ。
報われない想いが亡霊となってインターネットの宇宙を彷徨う。
昇華されない創造物は消化不良で胃の中に堆積していく。

匿名性が高ければ高いほど、表現の自由が増す。
忖度せずに言葉にするのは裸体を晒すようで、知人に見つかればこの世から消えたくなるだろう。
万が一に備えて鍵をかけたり外したり、自身を偽ることがあったりする反面、ありのままの自分で高く評価されたいという欲もある。
一つではない動機を胸に、今日もアプリを起動し呟きを残す。

「自分でも分からない言葉の正体を探して、noteを始めてみようを思う。」

しばらくして、知らない誰かから小さなハートマークが届く。
それだけで、ほんの少し気分が良くて。
今日はコーヒーをトールサイズで買おうと思った。