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「無いもの」が、やっぱり無かった

いつも通りの帰り道

大学の長く退屈な授業を今日も何とか乗り切った。

授業を聞いていた、というより

ただ教室で目を開けて存在していただけ、の方が適切だけれど。

それでも、学問的積極性に関する少しばかりの自負が邪魔をしたから、残って勉強をした。

偉い。


気を抜けば自分からあふれ出てしまいそうな「疲れ」を、背中から体の正面に回したリュックで何とか押し戻す。

それとおんなじ構造で、電車に自分自身を詰め込む。


疲れやネガティブな諸々があふれ出しそうなくせして、心には変にぽっかり穴が開いていた。


こんなに人と体が触れ合っているのに、何の暖かみも無い。

それどころか
寒い。寂しい。冷たい。苦しい。脆い。虚しい。


そんな帰路はいつだって、暗いものだった。


ふと、全くもって何の脈絡も無く、あることを思いついた。

あ、家に帰ったら冷蔵庫にプリンがあるのかも知れない

これは何の根拠も無い、弱く浅はかな思いつきだった。


しかしこの思いつきには不思議と、正当性がある様に思われた。

それは小学4年生の頃に感じていたサンタの存在くらい、確かに思われるものだった。


その考えが頭の中で生まれた瞬間、体はなぜか軽くなった。


あんなに鬱陶しかった電車で隣のおじさんに、
労いの気持ちを抱くようになった。

あんなにブスッとしてドア際でスマホをいじる邪魔な高校生にも、一種の懐かしさと共に優しい視線を向けられるようになった。


きっとそうだ。

家に帰ればプリンがある。

父親は別に頼んでなくても、仕事終わりにアイスやスイーツを買ってきてくれる時が確かにある。

その日なんだ。今日はきっと。


家の冷蔵庫を開ければそこにある「はず」のプリンのイメージは、摩耗した心と体に強い方向性を付した。


一時間以上の電車を我慢した。


最寄り駅からの、暗く寒い道のりも何とか堪えた。


帰り道に自分でプリンを買って帰るという思考は当然出てこない。

何故なら家の冷蔵庫の中で冷えて待っているプリンの存在はもはや、「事実」であったから。


家の前までたどり着く。


横着を決め込んで、背中のリュックの一番外側のチャックに両手をまわして突っ込み、カギをまさぐる。


カギを開けて玄関を通過する。


こんな日に限って面倒くさいブーツを履いていることを恨めしく思った。


焦らず、急いで、正確に。


紐を丁寧に少しづつ緩めて足との隙間を作ってゆく。


ブーツを脱ぎ捨てて冷蔵庫に向かう。


冷蔵庫の扉を開ける。



そこにプリンは無かった。



自分が食べてしまったのだろうか。

誰かが食べてしまったのだろうか。

それともプリンは元から無かったのだろうか。


それは誰にも分からない。



でもそういえば、

自分で昨日買ったとかいう訳ではない。

今日朝ごはんを食べた時、冷蔵庫にプリンは無かった。

家の誰かに頼んでおいた訳でもない。


じゃあ元から無かったものなのだ。

存在しないものが、
やっぱり「無かった」のだ。


それだけなはずなのに。


「無かったもの」が「無かった」だけなのだから、状況として何も増えも減りもしていないはずなのに。



何故か、心の穴はより一層大きくなっていた。

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