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資本主義のわたしなりの一つのこたえ

「資本主義のこのルールおかしいでしょ。
人死んでるし、環境壊しているし、国家よりも大企業の方が強いってなに?国や人や自然って、お金のためならどうにでもなったらいいもん?それって仕方ないの?そんなのいいの?世の中の大人はそんなことも考えないの?バカなの?アホなの?自己中なの?それともこんなふうに考えているわたしがおかしいの?」

って思いはじめたのが22,3歳ぐらいのときだった。

いまはそれよりも大人になったし、京都に住みはじめて「ばか」という言葉もなんとなく使わなくなったので、そんな風には思ってない。
なにより、そうして、だれかやなにかを否定するのに疲れたから、「たまたまわたしがそこに関心を持ってしまっただけだよ、面倒なことに興味持ってしまったね〜」と遠目から自分を見ていたりもする。。。
(でも興味は持ってしまったので、ずっと考え続けてる)

そのときは、いまよりも考えも浅はかだし、視野もそんなに広くないし、なんかおかしい、でもみんな気にせずに右肩上がりを目指して生きている。わたしのほうがおかしいのか、、、、って思っていた。


そんなこと考えていて、いてもたっても苦しくて、どうして生きていけばいいのかわからなくて、それにしても問題が大きすぎて、

「じゃあなにが悪いんだろう。どこでその不具合が起きてしまったのだろう。その原因はなんだったんだろう。」って考えるようになった。

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自分も「お店の人」で自分も「お客さん」を気づかせてくれた神楽坂

ちょうど、そのぐらいの時から神楽坂の居酒屋で働きはじめた。

それまでも接客はしていたけど、ここでの数年間は本当にたのしく働かせてもらった。

なによりも常連のお客さん、特に同業者(飲食店)の常連さんが多かった。

となりのラーメン屋さんのお兄さん
坂を5メートル上がったところのガールスバーのお姉さん
(いつもお客さん連れてラストオーダー間際の朝3時半とかにくる)
坂を少し上がったところの上島珈琲の方々
その筋向かいの炉端のおやじさんとなつみさんとそのお店のみんな
(めちゃくちゃよくしてもらって、ここのお店でも働いてた)
ちょっと有名なイタリアンで働いていたお兄さんは銀座のフレンチで働いているお兄さんと飲みに来てくれたり
(2人のお店にも行かせてもらったなあ、築地にも一緒に行ったなあ...)
地中海料理屋のダンディーなハーフのお兄さんはお店が終わった夜中の2時頃、たくさんお客さん連れてきてくれた


どっかのお店の中の人も、働いているときは「お店の人」
でも、そのお店を出て、うちのお店にきたら「お客さん」

わたしも働いているときは「お店の人」
でも、だれかのお店に行ったら「お客さん」

みんながお店に来てお金使ってくれるから、売上になって、わたしがお給料もらえる。
お給料もらえるから、わたしは生活できるし、そのお金でみんなのお店に行ってお金が使える。

当たり前のこと、かもしれないけど
わたしは、ここに確信めいた。

このお金の循環はいいんじゃない?
ってか、これが普通であって、
これ以上に大きくなったのが、歪となって、いろんなところに影響が出ているのではないか。と、腑に落ちた。


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「わたしもお店の人で、わたしもお客さん」ではなくなってしまった

わたしの考える、資本主義の歪みの一つの原因は
お金の流れが見えなくなってしまったこと。
生産者と消費者の間に、
見えないあつーーーーーい壁ができてしまったこと。
消費者が「消費するだけの人」になって
「生産者」と「互いにさま」の関係がなくなってしまったこと。
だと思っている。

どこからのお金を自分がもらって、それをどこに流しているか、誰に払っているのかが、わからなくなってしまったのだ。


それは資本主義が大きくなりすぎてしまったが故。

このルール上では、
より、大きく、たくさん、効率的に、もっともっとの右肩上がりを強制させられる。

そうして、だんだんと大量生産大量消費になっていき、必然と、遠くで安く作られる。
商店街はなくなり、ショッピングモール一つで完結させられる。

もう、どこのだれがどうやって作って、だれにお金を払ってるなんて知ったこっちゃない。

いままでは目利きの聞く八百屋さんに払っていたお金も、スーパーのレジ打ちのおばさんに払うことになるのだから。



消費者にとって、安いのと引き換えに、どこのだれにお金を払っているのかが不透明になってしまった。
(引き換えと言ってみたけど、消費者はそれがネガティブなことということさえも気づいていない)

100円で飲めるコーヒーも
100円で買えるチョコも
1000円で買えるTシャツも
どこのだれが、どんな厳しい環境で働いたり、どれだけの環境汚染に繋がっているかも、どんな想いで作られたかも

消費者はもちろん、レジのおばさんだって知らないだろう。


お金を払う人と、それを作る人の間に、とてつもない壁ができてしまったから。


そしたら「お金」さえあれば、なんでも手に入るし、「お金」があれば使い捨てられる。「お金」があればどこのだれが作ったかなんて関係ない。

「わたしもお店の人で、わたしもお客さんだから」の精神がなくなってしまった。


そしたら、モノだって大切にしないし、モノを得るためのお金になる。
そこに「ありがとう」とかいうのはなくなる。


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ひとまず、自分が「お店の人」だし「お客さん」でいれる環境に身を置く


大きなルールは変えられないし、どうやって変えたらいいかもわからない。

でもひとまず、最低限、自分の周りだけでも、目に見えるお金の循環の中で生きるのはやらなきゃだ。

って思うようになった。


だから、この神楽坂で働いたなかで考えた


わたしもお店の人で、わたしもお客さん
自分もなにかを提供してお金を払ってもらう側だし
そのお金でなにかを提供してもらう側でもある

っていういう意識はできるだけ忘れずに生きているつもり。

資本主義のルールの中にはいるけれど
できるだけ、できるだけ、どっぷりと浸からずに
見える範囲のなかでお金を稼いで、そのお金を使っていきたい。

どこのだれが、どんな気持ちで作ったか、わかるものを手にするように意識していきたい。

これが、いまの、資本主義のわたしのこたえの一つ。



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でも、これだけが正解とは思っていない。

だって、この社会も世界もめっちゃ大きいし、めっちゃ複雑なんだもん。
そんな、これが一つの正解で、これ一つで解決するよ!

なんて、そんな簡単なもんじゃない。

最近は、大きいなら大きいなりのいいこと
というか
小さすぎるが故の苦しさも感じはじめてきた。

いまはその辺のしっくりくる答えが見つかっていないので
また、ほろほろと考えつづけたい、29歳の夏です。




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