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「べてるの家」にいない精神障害者の独り言

かの有名な北海道浦河町の「べてるの家」で「べてる祭り」というイベントがあり、多くの人で賑わったようだ。
参加した知人がSNSに投稿していた。

「べてるの家」のメンバーが幻聴や幻覚の話をしたら、皆さん興味津々で聴いておられるご様子が伝わってきた。
私も精神障害の当事者(手帳は未申請だが)として、自分が話す症状に真剣に耳を傾けて一緒に考えてくれる人が増えることはありがたいと思う。

同時に疑問も感じた。

「べてるの家」のメンバー達が話す症状に興味津々だった人達は、ひとたび浦河町を離れて、あるいは「べてるの家」の本を閉じて日常生活に戻った時、どういう行動を選択しているのだろうか?

例えば、ご近所さんや親戚など身近に精神障害者がいる場合、その人が訴える症状などの話を真剣に聴いているのだろうか?
見えてない振りや、聴こえてない振りをしていないか?

仮に話を聴いて欲しいと望まれても、「私は忙しいから」とか「専門家に頼むべきだ」とか、関わらないようにしていないか?
そもそも、自分が関わる理由は無いと思っていないか?

それが当然と思っていないか?
自分には自分が守るべき生活があるのだから、当たり前だろう!と。

その前に、精神障害者のことを、自分と同じ「感情ある人間」と思っていないのではないか?
自分は一生懸命に勉強したり仕事したり、時には他人のご機嫌を取ったりして、必死に努力して今の生活基盤を築いた。
そんな自分が、勉強もせず働きもせず、支離滅裂で意味不明な発言ばかりする精神障害者と同じわけがないだろう。

そう思っていないだろうか?
もし該当するとしたら、某事件の実行者と同じ目を精神障害者に向けていることになる。

私も精神障害で苦しむ「当事者」なので、「べてるの家」が理想郷で、それ以外の現実社会がひどく冷淡に見える。
「べてるの家」に行ったことはないので、あくまで想像に過ぎないが。
そして、その状況は当面変わらないように予感している。

私は「対人援助」という言葉が苦手だ。
なぜ、そんな役割をわざわざ明確に作る必要があるのだろう?
「援助する側・される側」を明確に分けたいのだろうか?
その目的はどこにあるのか?

精神障害者は弱い。限りなく弱い。体力、気力、経済力などなど。
それに対して、強い私、弱くない私こそが援助するに相応しいと思っていないか?

多くの人は、本心から「自分がとことん弱くてもいい」「自分が他人の援助を受けてもいい」とは思えないのではないだろうか?
本能的レベルで。
本心では、「自分は本当は弱くないんだ」と確認したいのではないか?

「べてるの家」が素晴らしいと思われる方は多いだろう。
どうか、「べてるの家」にいない精神障害者にも目を向けて欲しい。
そして、できる範囲でいいから、偏見を持たずに話を聴いて欲しい。
「べてるの家」にいない当事者からの勝手なお願いである。

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