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子供向けであって子供騙しではないっ!ぱっと見バカバカしいから見向きもされない不遇さの話

 松本さんとの対決から約4ヶ月目
この4ヶ月間で松本ファンに驚かされる事が多々ある。自分の愛する人を守るために潜在本能が研ぎ澄まされたというべきか
皆それぞれ違う意味で頭が良いと言うべきが
例えばダウンタウンさんの芸術や魅力を考察的に分析する者(僕のNOTEを含め)、署名活動サイトやメッセージを送る為の活動やアプリを発見して松本さんに届ける人、スポンサーや弁護士関係に自分の意見を伝える行動力ある者、合成写真を知識を元に暴いた人、番組の写真を元に推理する人、人脈を辿り弁護士や芸能関係者に相談する者など
驚くべき行動性を垣間見る事が出来る

この騒動中に思ったことは普段テレビ、特にバラエティ番組、特にダウンタウンさんの番組ばかり見ていると「お利口になれない」とよく言われるが
まさか自分が松本さんそしてダウンタウンの番組を見てきた事で誰かを救える
そしてそれが一番大切な人である事がとても嬉しい


しかしダウンタウンそしてバラエティ番組などの娯楽は時よりバカバカしいと大人たちに小馬鹿にされる
ある歌手の方も以前インタビューでそのように語り賛否を浴びたが
もちろんバラエティにもたくさんの種類がある
下ネタ、親父ギャグや体を張る事ばかりで見ている人からしたら「くだらない」という意見も多々あるだろう
 その中でもダウンタウンさんの、松本さんが生み出した番組は本当にくだらないモノなのか?

 ダウンタウンやバラエティ番組もそうだが
他にも僕が好きなモノはよく子供向けでくだらないと罵られる
ディズニー(テーマパーク含む)やドラえもん・アンパンマンといった漫画作品だ
 僕の同級生もよくこれらを幼稚と揶揄していたが
 これらのニーズは確かに「子供」つまり幼稚園児、保育園児から小学生、中高生にはかなり議論が分かれる世代となる
子供向けなのは合っている
しかしこれらの作品は決して子供騙しとは別なのだ!

ディズニー映画はハッピーエンドが多すぎる、そんなうまくいくはずがない、もう少し毒があってもいいはずだとよく言われる
松本さんも僕らの時代の中でそのように述べた
そう、「アナの雪の女王」 「美女と野獣」そして原作では悲劇で終わることで有名な「リトルマーメイド」、すなわち人魚姫ですらハッピーエンドで終わる
それらについてそのような意見を述べる人もいる
現在のディズニー作品はそういった思考が強いが
ウォルトが生きていた時代のディズニー作品は意外とバッドエンドのものも多い
ミッキーやドナルドも敵に負けてしまったり、「チキンリトル」(短編版)の話ではヒヨコ達がキツネに全て食べられてしまうという衝撃展開、「イカボード先生と怖い森の夜」「鯨のウィリー」でもバッドエンドが描かれている
そしてディズニーランドを作る際も
「白雪姫と7人の小人」や「トード氏のワイルドライド」ではゲストが死んでしまうという(設定)怖すぎるオチが待ち受けている
コレらはウォルト自身が子供達に世の中うまくいくことばかりでないと教えるためにあえてそうしているのだ
ウォルト自身が金もないのに人を喜ばせるために予算を使いすぎて作品を作れなかった事、配給会社を頼ったらその社長にキャラクターを取られた事、作った映画が思いより売れなかった事、戦争により作品作りが阻まれた事など人生の理不尽さによく触れていた
 近代、そして日本では特に
ディズニー=子供のブランドイメージが強くなっていき薄れていってしまったが
そしてそれらは黒歴史になっていき国によっては販売もされていないのだが
ウォルトは戦争中にプロパガンダ作品といってドナルドや7人の小人、グーフィー、三匹のこぶたが出兵する作品を作ったりしている
そしてドナルドは日本を襲いに来ていて、メガネをかけて出っ歯のステレオタイプデフォルメをされた日本兵に不意打ちされる作品もある
さらにアメリカの歴史や科学の発展を説明した映画やアトラクション、そしてなんと性教育の短編まで作られたこともある
今のイメージでは考えられない事である

そして日本の漫画家さん達も
僕の好きなのは藤子不二雄ご両人(Fはドラえもんやパーマン、Aは怪物くんや笑ゥせぇるすまん)、赤塚不二夫(天才バカボンやおそ松くん)、やなせたかし(アンパンマン)、水木しげる(ゲゲゲの鬼太郎)などが挙げられるが
彼らもまたその作品イメージに反して時に大人向けの作品を描いていたり、子供作品にも深いテーマ性が垣間見れる
例えばトキワ荘出身の藤子不二雄先生や赤塚先生は人間の愚かな部分や弱い部分をそれぞれ違う描き方をしていて

安孫子先生(藤子A)はそれらが原因で己が気が付かないうちに壊れていく様
藤本先生(藤子F)はそれらが元で環境破壊や戦争など他者や外部に気付かぬうちに悪影響を及ぼしていく様
そして赤塚先生はそれらをギャグや自分の一部とし、ポジティブに考えていく考え方すなわち「これでいいのだ!」を生み出した。
そして特に藤子不二雄先生は子供向け作品では飽き足らず、そればかり書くストレスに耐えかねて大人向け少年誌に漫画を記載することとなる
藤本先生は自身が生み出すSF(少し不思議)な世界を元に、宇宙人や異世界、過去や未来などのタイムマシン、おとぎ話や神話の中に現実的な思想を取り入れた短編
そして安孫子先生は自身のサスペンス的な描写や、サイケデリックな画風を時より交え社会問題や風刺を取り入れたブラックユーモア短編を描くようになり、そしてその中の「黒ィせぇるすまん」はやがて連載、そしてテレビアニメ「笑ゥせぇるすまん」として有名になっていった。
そして大人向け少年誌以外にも、藤本先生の方は難しいテーマの作品を作り出すこともあり
特にそれらはドラえもんの劇場版、つまりその原作である大長編ドラえもんで見受けられる
のび太の恐竜から始まりその時に描かれるのは、普段のドラえもんの日常からタイムスリップや異世界への冒険を通し勇敢なのび太や優しいジャイアンなど少しテレビと違うスケールで描かれたドラえもん程度にしか思われていなかったが
やがてそれらは子供の映画には深いテーマ性を帯びていくようになり
「鉄人兵団」ではロボット達が自分のエゴのために生み出した戦争、「アニマルプラネット」や「雲の王国」では人間の身勝手故に破壊される環境や自然破壊、「創世日記」では人類の歴史(文明の発展や戦争、過ちを繰り返しながら調和や進化を続ける人類)を描いている
子供の頃にビデオでこの作品を見た時はそのテーマ性に気が付かず、そして「鉄人兵団」あたりは僕には難しいテーマすぎて途中で退屈になった思い出すらある
そういったこともありリメイクが施された場合は絵柄がポップになったりオリジナルキャラクターや、芸能人声優、歌や踊りなどが入り子供が入り込みやすく改良される

そしてゲゲゲの鬼太郎も時に人間のエゴで悪さをせざるを得ない妖怪たちや、妖怪より恐ろしい人間の本質を描いた話であったり
妖怪大戦争では妖怪達の戦争の話、そしてさらにいうと水木しげるの玉砕の話では、水木しげる先生が体験した戦争が描かれている
子供が入り込みやすいように妖怪や鬼太郎、目玉の親父、ねずみ男が登場するが
それらは実際に長生きをしてそれらを見てきた彼にしか書けない作品である
そして、やなせたかし先生のアンパンマンもまた特に子供向け作品思想が強くなるが
やなせ先生も戦争を体験し、そしてひもじい思いをして生きてきた経験がある
アンパンマンは元々は戦時中にアンパンを配るヒーローとして生み出されたキャラ(その後戦死してしまう)だった
そして原作ではアンパンマンは何度かばいきんまんを殺菌してたり(太陽光で焼き殺す、地面に埋めるなど)←次の話ではまた登場していて殺しても殺しても何度も出てくる病原菌を表している
生き物は食べ物や生きる目的がないと生きていけない(オープニングテーマや挿入歌で歌われている)という事や、生き物の死が幾度となく描写される
 コレらはアニメ化の際に刺激が強すぎる為特に原作初期の話は全てオリジナルからほぼかけ離れた内容に変更されている
 そして漫画界の原点で特にトキワ荘出身の漫画家達が憧れている手塚治虫先生もまた火の鳥やブラックジャック、鉄腕アトムで社会的な作品を時に描いている
手塚先生は、漫画は子供達の「夢」を与える作品だからなるべくショックなシーン、過激なシーン、お色気描写は描きたくなかったそうだが
それでもそういったシーンは彼の代表作であるそれらにすら決して少なくはなかった。
 そして子供の頃に数多く目を向けてきたこれらの作品の深さ、テーマ性に気がつくのは僕が大人になってから
そして更に悲しいことに、僕の周りは気がつく所かコレらが子供向けと判断して再び目を通す事はなくなる
 なぜそうなるのか?
コレらに共通する事は作者の死または、作者の高齢化なども理由の一つだが
アニメや他メディアでの人気故に段々と作者の手からそれらが独立化していくからである
 アニメが人気になると子供のファンが多くつく、そのためにターゲットが子供に絞られていき子供にわかりやすく、子供がより好きになってもらえるようにするために過激な原作は改良されてしまう
そしてアニメでそれらを知る大人は、それらの作品は子供向けで幼稚と思い込んでしまうのだ
全てターゲットのニーズに応えようとした為にそうなってしまうのだ
 そしてその中でも水木しげる先生はアニメを元に自分の元から鬼太郎達が離れていったが
お金が入るならそれでいいとよく開き直っていたそうだ。

それらを踏まえダウンタウンの番組を考えてみると
ダウンタウンの番組のターゲットはもちろん子供じゃない、ガキの使いと言っているがガキではない(もちろん、お尻やチ⚪︎コなどの下ネタは子供にも人気であるが)

ダウンタウンの番組の多くは松本人志の「コレをやってみたかってん」という着想から作り出される
ガキの企画はもちろん、ハプニングを作り出したいという気持ちから生まれたダウンタウンなう(ほぼ生放送時代)、見室で笑わせないといけないし笑ってはいけないという心理状態で生まれる笑いを追及したドキュメンタル、松本さんのもし?を追求した笑いがみれるまっちゃんねるなど
それらの多くは大学や科学研究員の笑いの研究発表のような深さのある笑いであり
そこには馬鹿馬鹿しさは存在しない
しかしどこでコレらがくだらないものになってしまうのかというと
コレらの作品はやはりまたしても作者である松本人志の手を離れていってしまうのだ
あの力強そうでゴツ太の腕からも離れるのだから誰がやっても離れる

笑ってはいけないも初期の頃にあった「絶対に笑ってはいけない(笑ったら過酷なお仕置きが待ち受ける)状況でどんな仕掛け(些細でくだらないこと)があっても耐えなきゃいけない」というコンセプトは現在のようで薄れていき
やがてバツもコンパクト化するようになり
ネタもタレントのネタになり
松本さんもドキュメンタルシーズン1冒頭で良くも悪くもエンタメ化していると述べたように
5人だけの研修室でさえも卑怯な笑わせ合いよりも5人で会話や時に引き出しのトラップで楽しんでいるようにさえ見える事が増えていった。(鬼ごっこや蝶野ビンタのようなそれらと関係なくキツい場面を除く)
そしてダウンタウンなうも、編集時間5分のほぼ生放送体制を行っていたが、視聴率低迷に伴い本気でハシゴ酒というゲストとお酒を飲みながらトークをするという内容を放送した所
そちらが人気となってしまい
そのコーナーは打ち切りとなった
そして今では諸事情で仕方ないとはいえコロナでロケができなくなり松本さんのみの(この場合ののみは「だけ」という意味で飲みとかかっているわけではない)
体制の「人志松本の酒のつまみになる話」にシフトチェンジ
そして今は松本さんの活動休止に伴い
「酒のつまみになる話」に変わってしまった
そしてドキュメンタルもまた松本さんのその知的な実験性に反してなのかこれはある意味狙いどおりなのか?
出場者(特に優勝者)が下ネタをやりすぎてしまい何度か問題視されるようになる
バラエティでは珍しくモザイクがかかるシーンが多く見られる
その下ネタなどの下品さは偶然生まれた(松本さんの発想と芸人がピンチに陥った際に導き出した答えの化学反応)ものだが
その松本さんの知的好奇心あふれる着想を知らぬ上でこれらを見てしまうと
松本そしてダウンタウンはくだらないという目で見られてしまう
そして松本さんが一時期テレビから離れていて
松本さんが生み出したフォーマットが松本さん抜きで行われているが
今の状況を元にもしいつか松本さんが引退や、死去により芸能界を去ることになればどうなるのかなんてたまに考えたりもする
それらが松本さんの手から離れすぎて形がどのように変化してしまうのか?

心配にはなるが
勿論、どんな形であれ未来に残る事や未来の人々にそれらが親しまれるのなら変化もわるいものではない
もし松本さんが自分の元からそれらが離れてどう変わるのか?というのも一つの実験として見てくれれば問題はない(むしろ自分が気が付かなかった変換の仕方を見れて喜ぶ事もあるかも?)とは思うが
どんな形であれお笑い好きの笑いにハマる作り方、そして松本さんの当時の考え方や着想にリスペクト(そして本人的には多額の使用料💰)を払い
その笑いを伝えられる形で残ってくれる事を祈っている

 


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