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手の届くところに

私は、noteに心の動きを書いている。
心の動きしかほぼ書いていない。

なぜそんなプライベートなものを公にしたいのかというと、
病気などを克服した人の話は、本になったり、記事になったりするけれど、
進行形の人の話は、ほとんど目にしなかったから。
私が10代後半の、一番求めていたときは。

今はこうやって、ネットが身近にあるし、違うのかな。
私が摂食障害になったその当時はなかった。
(受験が終わった中3生がガラケーを買ってもらえた世代です。)

専門書などで、病気自体のメカニズムを学ぶことも大切だ。
でも、ドクターには書けない、
揺れ動き、もがくリアルな心を、そばに置いてほしいと思った。
当事者の方と、そのご家族に。
特に発症(この言葉がいやな人もいますね、ごめんなさい)からまだ時間がたっていない、模索中の方が、
手を伸ばしたところに居たかった。

異常かもしれないけれど、
ひとりじゃない。
異常も何人も集まれば、
異常じゃない。
あなただけじゃない。


悲しい、苦しい気持ちも書く。
死についても書く。
正直に。


そして、書いているうちに、
気づいたことがある。
下へ引っ張る内容を取り上げる以上、
上へ持ち上げる言葉を使わないとだめだということ。

この20年は苦しかったですか?
と聞かれたら、答えはイエス。
この20年をまとめて一言でいうとしても、苦しかった。

でも、
楽しいこと、嬉しいことはなかったですか?
と聞かれたら、100%答えはノー。
苦しい日にも笑うことはあったし、
楽しいことの直後にも食べこんだ。

つらくてたくさん泣いたけれど、
美しすぎて泣いたことも数え切れない。
私のまわりはすてきな人で溢れていて、
やさしい人が常にいた。

どんなに小さくても希望があれば、
その希望を感じられたら、
完全な絶望と孤独の中にひとりぼっち、
ではなくなる。

もしそのきっかけに
私の言葉がなればうれしい。
そのためにも、
苦しみと、
それ以上に、喜びを綴りたい。

ほぼ出かけないので、
なんとかスポットとか、
なんとか映えする話は書けないし、
役立つ情報も持っていない。

書けるのは、
感じること、感じたこと、
私の日常体験。

ひとりの私が書いている。
どんな内容も同じテンションで。
書いたあと、声に出して読み直すとき、
涙ぐむか、愛兎(まなうさ)ルーナがあきれるか、
の違い。


思うのです。
どんな人であれ、
生きている人の日常は
他の人の目からみたら面白い。

いつだかのラジオで聞いた、10代の子の投稿。
“社会のこわい先生が、息を切らして、汗だくになり、電車に飛び込んできた。
おかしくて仕方なかった。”

ぐっと親近感が増したのでしょう。

家庭の事情とか、家族の話とか、みんな好きでしょ。
本人たちは、全然楽しくないし、むしろ深刻だったりもするのに。
(笑い事ではないものもあることは、言うまでもありません。)

人は何だかんだ、
似ている。

“今”近くにある
愛おしいものを、
思いっきり
愛おしみたい。

―――

いつか本を出したいと10代のときから思っていて、
実は今も思っている。
同じく10代のときから、ラジオを持ちたいと思っていて、
実は今も。
小さくて大きな夢です。

そうこうしているうちに1〇年経ってしまい、
自転車をとばせばスープが冷めない距離に住む、頼れる友人に相談した。
「まずはホームページを開くのがいいかな?」
と、Theアナログ人間の私。

「今どきはSNSだよ。」
とその友人が教えてくれたのが、note。

そして現在に至ります。
目次を作ったり、すてきな加工は苦手です。お許しを。

2024.3.1


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