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桜の木の上半分

今住んでいるところは3階で、この建物の最上階。目の前には同じ高さの建物があって、だから、視界に入ってくるのは目の前の建物の屋上と、その向こうに育っている桜の木の上半分。

家のことを描写しようと思うと、何を書いて、そうして何を書かないか、そんなことを思ってタイプする指が止まる。例えば、共用スペースの様子を書く人もいるだろうし、その住宅に住む隣人について言及することだってあり得る。陽当りについて書くかもしれないし、間取りについて書くかもしれない。はたまたキッチンだけを強調して書くこともできるし、建物自体の立地について言及することでも十分に成り立つ。閑静な住宅街の一軒家、大通りに面したマンション、細い路地の先にある築40年のアパート。そんな一言だけでも、私達は十分に想像することができる。

この描写の順番や選別に反映される要因として、その人の持っている重要度の順位付けそのままではないように思う。もちろん、ある程度関連はしてくるだろうけれど(それはその人自身が重要だと思う部分によって住居を決めるのだから反映されやすくなるはずだ)、いざ住んでみたら全く違うところに注意を奪われるようなことも少なくない。

(過去の家)朝になれば、カモメのなく声が聞こえる家だった。海につながる川が近くを流れていて、春のはじめの朝には薄く霧がかかっていて、水面は穏やかだった。大型の台風が過ぎたあとは宇宙がそのまま見えそうなほどに空が遠かった。手を伸ばしてみたけれど、空気はいつもよりも濃密な気配をまとっていたような気がする。夜、遠く、赤い光の明滅が見えた。ホットミルクを飲みながら、その日起こった出来事を、例えば落ち葉を拾って歩く老婆のことや、交差点で日が暮れても話し続ける女子中学生、喫茶店のマスターから教えてもらった本のこと、遠い国のことなんかを、忘れてしまわないように何度も何度も思い返した。明け方隣の公園はあおのあおさに満たされて、空の一部のようだった。当時買ったばかりの一眼のカメラを構えて星空を初めて撮影した。(遠い国)22時になってもまだ外はあかるくて、ああここは日本ではないのだと、同じ太陽をみて思い出した。窓の縁に身体をあずけて飽きるまで外を眺めていた。天窓には月が映し出されて、夜の底が流れ出していた。一日中、落日のあとのような明かりしか入ってこないような部屋にもいたことがある。電気をつけることも面倒で、そのままで生活していると次第に目がなれてきて、その薄暗さが心地よかった。

(そして)いつも、外ばかり見ている。家の記憶はそのまま窓の外の世界の記憶だ。度の家にも必ず窓があって、窓から見える景色はどこも全く違うもので、それはもっと言えば光の記憶だった。網膜で像を結んで、意味を解釈して、海馬へ、あるいは大脳皮質へと貯蔵される。闇の先にある桜の葉が揺れる様子を眺めれば、風がよく視える。桜の木の高さと同じ目線で暮らしている。桜は随分遠くの景色まで見えている(?)ことを知った。このあたりには高い建物がないから。窓、そこから眺める景色は私と世界をつなぐよすがのように思う。そんなふうに言ってしまうと大げさかもしれないけれど。

畢竟、家のことを尋ねられると窓の外から見えるもの、それを通して思うようなことを伝えるしかないのだ。時間とともに移り変わる、解釈を幾通りにも促す、素晴らしい絵画のようだとそんなふうに笑いながら。

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