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寺山修司が今見直されている

 青森県出身の寺山修司。その強烈な個性や主張は生前、若者を中心に支持を集めました。その寺山修司が亡くなってから40年以上がたちましたが、今も若者を魅了し続けています。そのわけはどこにあるのでしょうか。
 寺山修司は、昭和10年、弘前市で生まれ、警察官だった父親の仕事の関係で県内を転々とした後、幼少期は三沢市で過ごしました。太平洋戦争で父を亡くし、母親が夜遅くまで働いていた三沢時代、寺山修司は寂しさを紛らわすように本を読み、文学に出会ったとされています。その後、青森高校から早稲田大学に進学すると、短歌の創作を重ねて頭角を現します。
 しかし、ひとつのジャンルにとどまらないのが寺山修司。社会に出るとラジオ作家や映画監督などとして活躍します。本人が称したところ「職業=寺山修司」。枠や常識にとらわれることのなかった寺山修司を見事に言い表しています。
 その中でも評価を高めたのが演劇です。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」を主宰し、「アングラ演劇の巨匠」として当時の若者を中心に絶大な支持を受けました。また、ラジオドラマの分野でも才能を発揮し、世界の優れたラジオ番組に贈られる「イタリア賞」のグランプリを受賞するなど、その才能は海外でも高く評価されました。
 しかし、昭和58年、肝硬変などのため敗血症を併発し、47歳という若さでこの世を去りました。短い生涯の間に短歌、詩、写真、ボクシング、競馬、映画、演劇、音楽、ラジオ、テレビ、ビデオレターなど、実に様々な表現活動を行い、同時代を生きる人々に大きな影響を与えました。
 現在でも若者を中心に寺山修司に惹かれているのは、強烈な個性に加えて、彼が訴えてきた主張です。「人はこうあるべきだ」などと何かと社会や集団への同調が求められる世の中で、その作品で寺山修司が唱えた「個の尊重」はひときわ重みをもつといいます。
 なかでも「女らしさ男らしさ」という概念からの脱却を説いた寺山修司の考えは今こそ再評価されるべきだと考えています。ジェンダー観などが今の令和に近く、色あせていない。むしろ今だからこそみんなに知っていただきたい。人生に迷ったときに寺山修司のことばに出会うと、自分に進む道を教えてくれるような魅力を感じることができます。
 「手紙魔」とも称される寺山修司ですが、生涯のパートナーである女優の九條映子に贈ったラブレターは自分の内面をさらけ出す手紙で、温度が感じられるような柔らかい言葉に満ちています。一般に知られる寺山修司のイメージから想像できない一面も、若い世代の心に強く響いたようです。
 寺山修司は古びることなく、自分の「芯」を持っていくべきだと、その自由さや力強さが若い人の心にぐっとくるのではないでしょうか。死の1か月前、インタビューでこう寺山修司は語っています。「僕は物語を中断してしまわないと気が済まない。完結してしまうと観客の中に余白が残されない。常に物語は半分作って、あとの半分は観客が作ってひとつの世界になっていく」。

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