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夫を飼って、夫婦の人形焼きを焼く

宇宙に絶対的な力が働いているとすると、自分の意志はあるのでしょうか?

「絶対矛盾的自己同一」とは、私が高校生のころに凝っていた西田幾多郎先生という世界的な哲学者の概念です。かんたんにいうと……

 自由意志の問題を大ざっぱに説明すると、この宇宙の現象が因果的に決定されているなら、自由意志は存在しえないのではないかという問いである。たとえば脳は原子で構成されており、原子の動きは自然法則によって因果的に決定されている以上、脳の働きも因果的に決定され、したがって人間の意志も因果的に決定しているはずであるがゆえに、意志に自由の余地はないのではないかというわけだ。

じんぶん堂 https://book.asahi.com/jinbun/article/13717419

皆既日食を考えた前回に、ペットショップで「この犬だ!」と天啓のようにひらめいた話を書きました。音楽づくりでも、自分が考えたとは思えないメロディがひらめくことも。

ひらめきとは、果たして宇宙の因果なのでしょうか?

たとえひらめいた犬でも、ノンバーバル・コミュニケーションを開通させるのは、赤ちゃんとよりも難しいもの。

ですがひらめいたからには、通じないもどかしさも何のその。どんなにやんちゃで言うことを聞かない犬でも、見ているだけで癒されます。その聞かん気ぶりが、逆に可愛かったり。

赤ちゃんではどうでしょう? 楽しいと期待して子どもを持てば、「こんなはずじゃなかった」と思うのは犬と同じ。しかも、「こういう子を」と選んで産むわけにもいきません。捨て犬は後を断ちませんが、人間を捨てるのは、犬より難しそう……。

ただし犬と違って、気の合わない子どもでも、将来は老後の面倒を見てくれるかもしれません。

では、配偶者の場合は?

犬と子どもならば、どんな飼い主(親)だろうが慕ってくれます。たとえひらめかない犬だったり、思った子どもと違ったとしても……。

ところが夫婦の場合、「ひらめかなかった」相手が慕ってくれるとは限りません。反対に、ミラーリング効果で「この人違うな」の気持ちが相手にも伝染するかも。夫婦関係は、難易度が高いですね。

少し前に「夫は犬だと思えばいい」という結婚ハウツー本がありました。

ためしに「夫を犬だ」と思ってみて下さい。ご飯のとき、真っ先にパパにおいしいものを出してあげる。ほとんどそれだけで喜んで忠誠を誓うのですからラクなものでしょう?

アマゾンの説明文より

こうなれば理想だけど……。うちの夫は、真っ先に美味しいものをを出していたって、忠誠は誓ってくれませんでした。それどころか、ますますふんぞり返りました。

確かに、犬には家事はできないし、たいていお金も稼げません。夫もそんなものと思えば、腹は立たなそう。その意味では良い方法のようですが……。

この本の前提は、「夫に犬みたいな可愛げがあれば」。さもなくば、せっかくの「カリスマ先生」のメソッドも使えません。そんな私みたいな人が多いから、飼いきれずに離婚となるのでしょう。

私も何度も離婚を考えた今ではわかります。犬のような夫でない場合は、「犬もどきの動物」と思って飼えばいいんです。

動物は序列が厳しいです。例えばハイエナは女尊男卑で、メスの序列は生まれた時から決まっているそうです。

競争社会の人間はそうではないのに、根拠なく既存の序列を振りかざす夫は、犬もどきの動物。

この割り切りができず、なんとか相手を尊重した関係を築こうとしたのが間違いでした。ナメられているのに、対等なコミュニケーションを望むなんて、無理な話。

夫が悪いというよりも、夫がこちらにひらめかなかったせいもあるので、仕方がありません。(こちらもひらめいてはいませんが)

ちなみに今では、夫は家事を全部やってくれて、欲しいものも買ってくれます。私が自分のステータスを上げることに専念したため、序列が逆転したからです。

序列にこだわる夫は、入れ替わっても律儀に従うものらしいので、飼いやすいです。

「妻を見下す態度」は、結婚の鋳型のひとつなんだと思います。タネを流して焼けば「家族」が焼きあがる、人形焼の型みたいなもの?

人形焼は、日本の伝統的な和菓子として、江戸時代の東京・人形町が起源とされています。 室町時代に誕生したこの菓子は、最初は芝居の町であった人形町で花供えとして使用され、その後大正時代に人形町で修行を積んだ職人によって、現在の浅草地域へ広がりました。

スイーツモール https://shop.sweetsvillage.com/blogs/knowledge/ningyo-yaki

いっとき、職場が人形焼き発祥の人形町だったことがあります。周囲にはクラシックでおしゃれな飲食店が多くて、美味しいランチはいつも楽しみでした。

「夫らしく、妻らしく」の鋳型が必要なのは、自衛のための鎧兜と同じでは。たとえ中身の餡などは違っても、みんなが同じ型で同じ加減に焼かれた「見かけ」が肝心なのです。

例えば、子育てやあたたかい家庭づくりに専念したい女性にとっては、専業主婦というステータスが人形型のような定番であるのが望ましいでしょう。

また日本では、男性は家長として優れてなくてはなりませんが、定番の形さえしていれば格好がつきます。

そんな男女のニーズに都合のいい焼き型が出回って、多くの人がそれをスタンダードと思っているよう。

うちの夫婦の場合は、フォトグラファーとライターとしてコンビを組む仕事で出会いました。いわば対等な立場だし、年齢も同じ。

出会いって、学校や職場や知り合い関係など、たいてい男女が同レベルの場で起こります。すると、妻より優れるためには、夫にはハッタリ(虚勢)が必要。 

ハッタリ人形に焼き上がった夫には、無意識に引け目があります。その分、虚勢をはって妻を見下しがち(多くはモラハラ)になるのが、よくある結婚の鋳型です。ここで健気な妻が下手に出ると、ナメられる羽目に……。苦い話ではあります。

人形焼きって、こんがりした外側のほんのり苦みが香ばしいんですよね。

私も夫以外の男性に、「この人だ!」とひらめいたことはあります。ただ、ひらめき通りに生きられるわけではないのが人間。その矛盾すらも、宇宙の意思なのかもしれませんが……。

西田幾多郎先生の「絶対矛盾的自己同一」とは、禅問答のようにきりがありませんね。先生は、「禅思想を理論化した研究者」とも言われるよう。にしては、人生をシンプルに考えるかただったようです↓。

回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後にしてたった。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。

上記のサイトより、西田先生の京都大学退官時のお言葉

人形焼きの型をくるりと「一回転」して両面焼くように、夫婦のパワーバランスも適宜ひっくり返せば色よく焼き上がります。

「簡単」に考えて、人形焼きのように甘さとほろ苦さを味わうのが、人生というものかもしれません。