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茶道・華道・「結婚道」

一夫一妻制の歴史が、キリスト教ベースの欧米に比べて浅い日本。婚外恋愛に異様に厳しいのは、「1対1」という新しいオモチャを使い慣れないことが原因のひとつかな、と思えるフシがあります。

例えば源氏物語でも、妻帯者である光源氏の華麗なプレイボーイぶりもさることながら、女性たちも夫や許嫁がありながら光と付き合っていますよね。

日本が一夫一妻制になったのは明治31(1898)年以降で、その歴史わずか100年あまり。DNAに深く刻まれるほどではありません。

ところで日本の商用サイトなどに、よく外国人(たいてい白人)たちがミーティングしてるような写真が使ってあって、いつも不思議に思います。インターナショナルな企画なのかな、と思いきや、何ら関係ないことが多いので。

同様に、ニューヨークでよく見るのは、インテリアに凝っている家に意味不明な漢字の掛け軸が掛けてあったり、笑える日本語のロゴTシャツを自慢げに着ている人たち。

洋の東西は、お互いに惹かれあう関係のようです。モネやゴッホも浮世絵には影響されたそうですし。

ただしアメリカの場合は、ヨーロッパの日本かぶれとは少々意味合いが違うかも。歴史の浅い国ゆえ、長い歴史があれば何でも特別に見えるらしいのです。

例えば伝統芸能。茶道のように独特な文化が作られ継承されてきたのは、確かに素晴らしいこと。とはいえ、華道や日本舞踊などは、習うにも師範になるにも、莫大なお金がかかります。特に華道は、センスや技術よりもお金をどれぐらい払えるかで昇進が決まってしまうよう。

部外者から見れば首をかしげる話なのですが、中にいる人たちはその伝統に従うしかありません。

結婚も伝統だから、名古屋のようにお金がかかる地域もありますね。家具や衣裳箪笥などの嫁入り道具一式をトラックに積んで、近所にお披露目して歩く伝統は有名。

昔の話かと思っていたら、21世紀になってネット友だちから体験談を聞いたし、ウェブ情報によれば現在も健在のよう。

関わる方々は大変でしょうが、私のような部外者には良い風習に見えます。新郎側もお金を出せば、結婚に対する責任感を自覚しそう。

光源氏も、基本的には関わった女性たちを引き取ったり、経済援助をしています。政略結婚が普通だった当時は、女性側の権力が欲しい男性は当然として、女性側も当時からいかに位の高いハイスペ夫をつかまえるかが争点だったそう。

してみると、時代を経ても変わらないのは、女性のほうかもしれないですね。商店にしろ農家にしろ、昔はどんな身分だろうが男女ともに、相手の家の大きさは問題だったでしょう。

ところが今どき、日本男性の出世は、一部の特権階級を除いては、妻の家柄とは関係ありません。一方、名門大学に入るために家柄が重要なアメリカでは、家柄の良い妻を持てば子どもの人生は有利。

日本でも一部の私立大学の附属小・中学校ではそんなこともあるようですが、大学で問われるのは入試の点数のみ。家父長制が色濃く残り、妻側からの相続もあまり期待できなそう。  

となると、ハイスペ欲が女性側に偏りがちなのが、現代日本の特徴と言えそうです。 

スペックといえば、中世の昔には、世界的に男性の人口比率が少なく、約1000人対1200人という女性の供給過多。加えて、スペックの低い男性は結婚できませんでした。

それで、ヨーロッパでは余った女性のために修道院が数多く設立されたそう。源氏物語でも、藤壺が夫である天皇の没後に出家しましたね。

音楽の世界でも、ハイドンもモーツァルトも、意中の女性は修道院に入ってしまいました。

現在の日本でも、年収が300万円以上では女性の未婚率の方が高いので、部分的には女性余り。ですが結婚しない女性が入る尼寺があるとは聞きません。

東洋経済 https://toyokeizai.net/articles/-/685895

結局ハイスペ欲は、年収の高い女性にもあるのでしょうね。女性の結婚には出産や失職などのリスクが伴うので、仕方がありません。「理想が高い」とか「自分より低収入の男性はイヤ」とかのプライドのせいだけのように言われるのは、どうなんでしょう。

余剰女性に「ロースペの男性と結婚しろ」とは言わず、修道院を増やした中世ヨーロッパはすごいと思います。

洋の東西といえば、私はピアノ以外にお琴も弾きます。日本では、奇しくもバッハとほぼ同時代(1600年代)に、八橋検校という怪物級の琴の名手かつ作曲家が出現。音階を新考案するなど、箏曲に芸術改革をもたらしました。

私は八橋検校のファンで、曲構成においてバッハとの密かなシンクロニシティに痺れたもの。

音楽家は、日本では階級さえ与えられない最下級でした。江戸時代なら士農工商の下。西洋でも、元々は貧しい家の才能ある子どもが、いわば口減らしのように援助と教育を受けて音楽家になった伝記を多く見かけます。ハイドンもフォーレもそんな例。メンデルスゾーンのような銀行家の名門の出は、例外中の例外です。

ところが現在のクラシック音楽は、伝統芸能の例に漏れず、世界のどこでもお金がなければ学べません。私のように音大卒でない作曲家は、例外中の例外。

そんな不遇な私だから、諦め半分・期待半分で思います。結婚という伝統も、お金・スペックがものを言うけれど、それだけでは終わらないのでは……と。

金閣寺のような贅沢な茶室を排して極めた千利休の茶道のように、金満を忘れた先に何らかの「道」があるかもしれません。

老子の”道徳経”の最初の一節には、「道は語り得ない神秘」とあります。

第一章

語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。

だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。

この二つは同じものである。

これらがあらわれて以来、名を異にする。

この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html

茶室の建築様式、茶器や壺、そして茶をたてる所作などの茶道も、今どきのインテリアや「買ってよかった」グッズなどのミニマル系ライフスタイル動画も……。「わぁ!」と驚くものって、「これだ」と言葉で説明しきれない神秘が魅力。

「結婚道」とは、そんな無形の神秘かもしれません。茶道の「わび、さび」に通じるような……。