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あの頃、1970年代の匂い

 私が小学4年生くらいの頃、世の中は結構、いろいろ動いていて、大人も大変だったと思う。

 私が通っていた埼玉の小学校では、先生が生徒から集めた教科書を焼却炉で焼いてしまうという、ニュースになった出来事がありました。
 教科書を焼く、というのは、なかなか過激な行為だけれど、それをした先生には、子どもに教えるという立場で、どうしてもそういう行動に出ざるをえなかった理由があったのかなと思うんです。
 詳しくはわからないし、ただその行為だけがショッキングな出来事として新聞などに伝えられていました。

 10歳の子どもにも、日々なんとなく感じる不安みたいなものはあったかもしれません。

 ある日、お使いでパン屋に行くと、いきなり値段が2倍になっていて驚いたのは覚えていて、いわゆる「オイルショック」ですね。今の状況と、少し似ているかも。

 天気のいい日に校庭で、体育の授業などしていると、「光化学スモッグが発生しました、校舎の中に入りましょう」みたいな放送があったり。大気汚染の公害、最近はましになったのでしょうか。代わりに花粉が?

 遊んでいて雨が降ってくると、「はげるぞ~大変だ~」なんていう子がいました。この頃アメリカが核実験を頻繁に行っていて、放射能汚染のことを言っているんですね。

 こうして思い出してみると、1970年代に既に今のあらゆる問題につながる事は起こって、始まっていたんだな、と改めて思います。

 私が4年生の時に、新卒の男の先生が担任になりました。
 この先生もなかなか過激でした。生徒に近所の八百屋さんにりんごを買いにいかせて、みんなで、りんごをセーターでこすって磨いて、ピカピカにする授業とか。
 ある日はクラスまるごと授業中抜け出して、みんなで電車に乗って、代々木のスケート場までスケートしに行った事もありました。お金は多分先生の自腹でしょう。
 私は参加しませんでしたが、夏休みには、先生の田舎に泊まり込みで遊びに行った子も結構いました。これは相当楽しかったみたいで、行った子達はその事をみんな学年の文集に書いていました。

 今なら、絶対NGですよね。でも、不思議と親からのクレームは無かったように思います。
 学校側も黙認していたようですし。まあ、多分注意されても聞いてなかったんでしょうが。

 なんとなく、私が勝手に思うのは、教育という名目で子どもたちを管理していこうという、その空気を、その先生たちは感じていたのではないかな、と。そうして、危機感を持った。
 だから、多少めちゃくちゃでも、管理から自分の意志ではずれることを、自分のできる事で見せてくれたのかなあ、なんて思います。

 あの頃は、そんな個人の想いが、まだ聞き入れられる心の余裕はあったんですね。
 漠然とした不安はあっても、今のこの、殺伐とした雰囲気はまだなかったように感じます。
 理屈より何より、まず子どもの心の未来を案じてくれる、大人の存在があったということ。
 
 その後、受験戦争、偏差値、共通一次、と私たちは否応なしに管理されていってしまい、あえなく、あっけなく、とても従順に、その中で生きてしまいました。
 多少の抵抗を試みることはあっても、管理下から抜け出せない、今の自分が無力に思えて、うつむく日々が続いています。



 

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