悩みや苦しみのほうがむしろ自然界には存在しない
子どもたちの春休みが終わり、わたしもまた通常モードへ。
それにしても桜がきれい。どこへ行っても夢のような色合いの桜が咲いている。今まで過ごしてきた春の中で、いちばん桜がきれいに見えているように感じる。
ピンクとも白ともいえないあわいの色。桜色、としか言いようがない色。
まだ小さかった子どもたちを一生懸命に育てていた頃、とにかく時間がなくてエネルギーがなかった。というか時間とエネルギーはすべて子育てに費やされていた。それはそうだろう。子どもたちは親のケアがなによりも必要だし、親からの愛と関心と言葉とはたらきかけを、ミネラルと同じくらいの必須栄養素として育っていく。
わたしたちは与え、彼らは受け取り、また彼らから返ってくる純粋で美しいものにわたしたちは支えられ生かされていた。
けれどもそのときはそうは思えなくて、与える一方で、奪われる一方だとかたくなに信じ込んでいたせいで、いつもいつも疲弊して、いつもいつも焦っていた。
このままではいけない。
このままでは自分が枯れてしまう。自分という存在が枯渇してバラバラになってしまう。社会の中で透明な存在になってしまう。
なんだかそんなような、自分の足元から崩れていくような根源的な恐怖があったような気がする。
そしてわたしはそこから逃れるために、物理的に逃げた。
正確にいえば、めっちゃ、仕事をした。
思いついたすべてのことに手をつけ、ピンときたすべてのひとに会いにゆき、必要だと信じてあらゆるところに馳せ参じた。
「仕事」という免罪符は切るカードとしては無敵だったし、「小さな子どもがいても自分らしさを失うことなく自由に仕事をし、理解のある夫にサポートされながら、子どもがいないひとよりも稼いでいるオレ」であるためだったら、なんでもできるような気がしたし、実際になんでもやったと思う。
そのときにわたしを突き動かしていた願いは、「子育てなんていうだれにでもできるさまつなことではなく、もっとわたしだけにしかできない大きなことをしたい」というもので、そのベースとなっていた信念はおそらく
「子育てにそこまでの価値はない」
「わたしはもっと価値あることをして、自分を証明しなければならない」
「時間は待ってくれない」
「より早く、より成功することが重要だ」
みたいなところに集約されるような気がする。
でも今、すべての信念が自分の中で真逆にひっくり返っていることが不思議だし、おもしろいなあと思う。
「子育ては価値があり、創造的で意義深いこと。世界を変えるほど」
「わたしはすでにそのままで価値ある存在だから証明なんていらない」
「時間はいくらでもある。人生でやりたいことはちゃんとできるようになっている」
「いつでもそのひとなりのタイミングで、完璧な人生を歩んでいる」
いろんな勉強もしてきたし、それなりに取り組んできたプラクティスだってあるし、出会うひとやご縁にもめぐまれてきた。
だから、「これをやったらこうなった!」みたいに短絡的にひもづけることはむつかしい。
強いていえば、人間の心というものはもともと自然なもので、悩みや苦しみのほうがむしろ本来自然界には存在しない。だから、今起こっている問題はじつは問題じゃない。起こっている出来事というものにむきあって、じたばたしたり四苦八苦したり当たって砕けたり、しているうちに、そのひと自体が変わっていくのことも、やっぱり自然なことなんだと思う。
目の前の現象はいつも、自分の本質に目覚めるための現象だと思うと、なんか世界ってほんとうにすごいところなんだなあ!としみじみ感じる。
毎朝、わたしが目覚めるたびに
「今日もわたしだ」とたしかに知っていることも。
三角形の内角の和が、
いつでも必ず180度であるということも。
春がめぐると生命が芽吹き、桜が咲いて、
そして潔く、なにごともなかったかのように散っていくことも。
この不思議さに新鮮に感動する心を失くさずに生きていたいな。
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