シュレックがいい

今日は仕事が休みだったので、映画を観た。

『シュレック3』と『シュレックフォーエバー』を観た。これがとても良かった。

『シュレック1』と『シュレック2』は既に観ていたので、今日は3から観た。

ざっくり紹介すると、心を閉ざした緑色の肌の怪物が、人間のように友人と交流したり、恋人と関係を持ったりしながらトラブルを解決していく話である。

焦点人物である〈シュレック〉には、ダウンタウンの浜田雅功さんが声を当てていて、コテコテの関西弁である。これがまたかなり良いのだ。

私は、この作品を通して、様々なことを考えた。中でも深く心に引っかかることは、「人間は、異形を描くときでさえ人間の価値観にとらわれている」ということだ。


〈シュレック〉は怪物である。体は大きく怪力で、肌は緑色、頭からは触覚が2本生えている。この点において彼の容姿は人間の容姿とは大きく異なっていると言えるだろう。

しかし、彼には手がふたつと足がふたつあり、目と鼻と口が顔についている。目はふたつ、鼻はひとつ、口もひとつだ。そして、言葉を喋る。それもコテコテの関西弁だ。この点において彼は、ほとんど人間と同じであると言えるだろう。

つまり、怪物というモチーフに人間めいた要素と怪物めいた要素とが共存しているというわけだ。


私はこの点に強く興味を持った。

「どうせ異形を描くなら、全くの異形を描き切ってしまえばいいのに」

と思った。

おそらくこの作品のコンセプトは「怪物の視点から人間を描き出す」ことであろうから、全くの怪物を描き切ってしまうと不都合である。だからこそ敢えて〈シュレック〉には、人間めいた要素もあてがわれているのだと思われるけれど。


「人間めいた要素」から逸脱した怪物が描かれている作品を私は知らないかもしれない。

〈怪物くん〉だって身なりは人間だ。〈ドロロン閻魔くん〉も、見た目は人間の少年だ。〈妖怪人間ベム〉だってそうだ。少なくとも、私が知っているフィクションの異形たちは、人間に似た姿をしている。

もっと、「胴体や顔がないのに目が1億個あって、そこから手が2億本伸びている」怪物とか、「髪の毛が本体で、集合と離散を繰り返して生存している」妖怪とか、そういうのを描いてもいいと思う。人間離れしていて、ぶっ飛んだ異形を描けばいいと思う。でもそれは、興行収入とかそういう理由で難しいのだろう。

ここで注目したいのは、私が「人間離れした異形」を想像したときに、「人間」を基準にして考えたという点である。

我々には大抵二つの目がある。だからこそ、「ぶっとんだ異形」を考えるとき、「1億個の目」を持った生物をイメージできる。

我々には大抵、胴体や首や頭がある。だからこそ、「人間離れした怪物」を考えるとき、「胴体や首や頭がない生物」をイメージできる。

つまり、人間がどれだけ「ぶっとんだ生物」を創造しようとしても、結局は「人間の価値観」の枠から逸脱することはできない、ということだ。

私は『シュレック』シリーズを見て、以上のようなことを考えた。

もし宇宙人や妖怪と交流を持てたなら、人間はもう少し自分自身や自分以外の生物について知ることができるのになあ、と思った。

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