善弥と姫谷について──スプステを観て

どうしても今日、5月31日に投稿しなければと思い、これを書いている。

ある日を境に、フォロワーさんがおかしくなった。
シチュエーションCDがきっかけで繋がった人だった。毎日ラブグッズの付喪神やら、ちんちん二本生えてる天魔の話をしていたあの人は、いつしか男子高校生の話をしては苦しむという広義で児ポすれすれの人になってしまった。今日も同じ話題。ようじ?誰よその男。
月日は流れ、三月が終わり、新生活の始まりの慌ただしさにも慣れてくる頃。私は記憶喪失の男子二人をラボにぶち込み、新しく繋がったボブゲ勢のフォロワーさんとつついていた。しかし、次第にそのフォロワーさんもおかしくなる。口を開けば「スプステ」としか言わない。この流れ見たことあるぞ。
そんなこんなでスプステの感染者が一人、二人。挟まれた私はオセロ方式で感染し、その頃にはスプステを気になりだしていた。

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『ひよこの眼』などなど、私は子供が酷い目に遭う作品が好きだ。大人の身勝手に振り回される子供。到底抗えない強大な存在や運命を覆そうと必死にもがく姿は、これから一雨降りそうな曇天を思わせる仄暗さを帯びた、ひとつの青春の表現とも言える。だから、最初に観るなら善弥さんルートだと決めていた。

緑川さんが好きな友人に、クリスマスプレゼントと称しvita版スイプーを送りつけたことがある。その際に軽くネタバレを漁ったとき、前述の癖を持つ私は(絶対この人のことが好きになるだろうな)と思ったことを覚えている。視聴時にほぼネタバレの内容はうろ覚えだったとしても、あるまじきと言える状態で臨んだスプステ。特典映像含め約90分間、ずっと見入っていた。

親からは「できそこない」と言われ、それを証明するかのように欠陥のある身体を持つ青年、翁長善弥。彼もまた、大人の身勝手に振り回される子供の一人だ。
幼い頃から優秀なオスであるかどうかを重視され、事あるごとにそれを基準に接されてきた彼。自分はできそこないだと理性でわかっていても、メスである蓉司を求める本能は止まらない。二律背反の間で苦しむ彼を、周りは変人だと言う。
彼の人生における目標は、恐らく「優秀なオスになること」で、それは奇しくも親である邦仁の目標と重なる。小さい頃から親に言われ続けてきた「優秀なオスになること」は、二人の共通目標だったはずだ。そしてそこには「優秀なオスになれば、お父さんから認められるかもしれない」という、幼い善弥のかすかな希望もあっただろう。しかし、目標が一致するはずの二人の親子関係は今にも壊れんばかりで、世話役の姫谷が辛うじてのよすがとなっている。
「祈りは捧げたのか」と口を開けば宗教を押し付けつつも、裏では息子である善弥がおんぬし様に選ばれてほしい──できそこないだとしても──と願う親と、そんな親の真意など知らず、ただ自分をめちゃくちゃにした目障りな存在としか認識していない息子。二人の一方通行かつノーコントロール極まりない会話のキャッチボールは、時に相手にボールを当ててしまいながらすれ違い続け、最期に善弥は親殺しを遂げる。善弥が「あんたの願望なんかどうでもいいんだよ」と言い放ったのは、優秀なオスになり「親から認められる」ことではなく「自分を確立すること」が目標になっていったからではないか。
善弥が刺されたとき、邦仁が「善」でも「善弥」でもなく、おんぬし様の名を叫んだのは、善弥を助けてください、という意味が含まれていたのか。それとも、これで翁長の男がおんぬし様に選ばれることはない、という悲嘆からの叫びなのかは分からない。どちらにせよ、それは善弥にとって、父の中では自分よりもあの肉塊の方が大事なのだ、と思わせる断末魔だったであろうことに変わりはない。そんな善弥の名を最期に叫んだ者がいる。その人こそ、他でもない世話役の姫谷である。


前述したように、家事だけでなく親子間のコミュニケーションの仲介もしてくれる姫谷は、翁長家にとって必要不可欠な存在である。善弥からは学校の送り迎えから夜のトイレへの付き添い、邦仁からは善弥の世話からストッパーと、あらゆる面で二人に関わっている姫谷は、宗教一家の翁長家に属しながらもその宗教を訝しむ。姫谷は家庭の一員として二人を支える連結具であり、一般人として信者の二人が一線を超えないように止めるストッパーとして作用する存在だ。
すっかり人が変わってしまった恩人、邦仁と、奇行ばかりのその息子、善弥。二人の世話は姫谷にとって苦痛であったのか、という考えは愚問でしかない。仮に苦痛であったなら、姫谷は最期に善弥の名前を叫ばない。善弥役の宇野さんが「僕だけは善弥を変人だと思わないように」と仰っていたように、他人からすれば変人に見える善弥は、ただただ一心に「優秀さ」に固執する純粋さと、自分が「優秀」ではないことを理解していても、それでも「優秀さ」に、優秀であれば与えられた、手に入ったであろうものに手を伸ばし続ける切実さを宿す、もろく儚い願いのために生きるひとりの人間だ。誰よりも、肉親よりも近くで善弥を見てきた姫谷が、それに気付かないわけがない。

「ほんとはさ、俺のこと嫌だったんだろ?」
善弥が姫谷へ投げかけた最後の問い。偽物の優しさに浸ったまま死にたくないから、最期は一人で死にたいから。邦仁同様、大きな謎を残す善弥の問いは、二人の世話は姫谷にとって苦痛であったのかという考え同様、愚問でしかない。あのシーンで姫谷が「坊っちゃん」ではなく、「善弥」と彼の名前を叫ぶことは、最期まで「善」としか呼んでいなかった邦仁=親以上に、彼と向き合っていた証左であり、姫谷はずっと善弥のことを案じ、一人の家族として──ともすれば実の息子のように──思っていたという、善弥の問いへの完璧な答えである。


「sweet pool」は、三大欲求をテーマにした作品なのではないかと、全ルートを観終わったときに感じた。半ば強引な解釈にはなるが、哲雄を助けた蓉司が彼の中で眠っているとして、哲雄(蓉司)→睡眠欲、睦→食欲、善弥→性欲、というように。
同時に、命を託す物語ではないかと考える。
蓉司の父から蓉司へ、蓉司から哲雄へ。大切な人に自らの命を託していく、恋ではなく、愛でもなく、もっとずっと深い想いからくる行動。食事を食べることで命を託す行為だと解釈すれば、蓉司から睦へも託されているが、睦が無理矢理行ったこれには、想いが伴っていない。そのため、睦は著しい空腹感を抱えていたのではないか。
では、善弥は一体誰に命を託したのか。前述の解釈、善弥に対応する欲求が性欲だとして、種の保存を目的とした欲求がテーマでありながら、種の保存ができないという矛盾した彼が手にした、存在しないはずの肉塊。善弥はそれを「この子は……できそこないじゃないといいな」「俺みたいにならないといいな」と、祈るように呟きながら、姫谷に託す。消える命と生まれる命の対比、それまで未成年に手を出すことを是としない姫谷が、未成年の命を奪おうと決意を固める流れも含めて、とても切なく美しいシーンである。

善弥の「弥」という文字には「最も」や「いよいよ、ますます」という意味があるらしい。名は体を表す、というが、「最も善い」「ますます善くなる」どちらでも皮肉に取れる名前を、最期に姫谷が呼んでくれたこと。それは善弥にとって、例えようがないほど美しく輝く行為なのだと思う。

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