見出し画像

浸食リップ

新色、ではない。
心ウキウキ弾まない、見せたくも見られたくもない。
浸食。

口唇ヘルペス、という病気がある。
唇の端などが乾燥したり、ガサガサしてきて、亀裂が入ったりする。
軽度ならあまり目立たないが、顔だしとても気になる。

触らないほうがいいと知っているけど、つい触れてしまう。
20歳の頃、口唇ヘルペスの症状にかなり悩まされた。

初めは、口の端がガサガサして、たまに血が滲む程度だった。
それがいつしか唇全体に広がり、やがて頬に飛び火し、鼻の脇などにも出るようになった。
患部は赤くただれ、膿が滲み、痛痒い上にとても目立つ。
真夏でも、マスク無しでは過ごせなくなった。

皮膚科で、ステロイドの塗り薬を処方された。
症状がひどいときにはステロイドを塗るが、一時はおさまっても2日後くらいに悪化する。
その繰り返し。

考えてもみてほしい。
20歳の女子の顔が赤くただれて、マスク無しでは外出できない。
当時は、コロナなんかどこ吹く風なので、真夏にマスクをしているだけで「どうしたの!?」と、ぎょっとされたものだ。
それでもマスクをしないよりマシ。

私は高卒就職組で、当時、工場勤務の事務職をしていた。
職場はみんな先輩ばかりで、おしゃべりな若い女子はいない。
不躾に聞く人も、お節介を焼く人もなく、そっとしておいてくれた。
そうでなかったら、職場にだって行けなかったと思う。

食堂でご飯を食べるのが嫌で、弁当を持参してデスクで黙々と食べた。
写真が嫌になり、とことん避けた。
普段はメガネをしているし、その上にマスクだ。
夏場は顔中汗だくだったが、黙って耐えた。
一日中、顔のことが気になって、嫌で嫌でたまらなかった。

幸か不幸か、この時期、多くの友達はまだ大学生だったので、生活リズムが違う。
友達と会わなければ、見られなくても済む。
それがせめてもの救いだった。

口唇ヘルペスの原因は、「単純ヘルペスウイルス」と言われる。
ただ、それは抵抗力があればそんなに悪さをしないし、薬である程度治るものだ。
私の症状が悪化した原因は、明らかに外的要因。
ストレスだった。

異性との関係が得意ではなかった。
入社3年目、高卒の私には、大卒の後輩が何人かいた。
工場勤務なので、入社してくるのは9割が男性。
かつ、就職氷河期に近い世代なので、女性はほとんど採用が無かった。
私の同期は10人だったが、翌年の新入社員は7人くらいだったと思う。
以降、女子の入社は途絶えた。
なんせ、若い女子が少なかった。

私はいわゆる「地味な陰キャ」。
もてるとか、彼氏とか、学生時代そんな話は皆無だったし、考えたこともなかった。

ところが、女子がまったくいない環境下ではさすがにもの好きな男性も現れるものだ。
後輩男性と、ちょっとだけ親しくなって、休日にも会うような関係を持った。
彼のほうが年上だった。

わずかながらでも好意を寄せてもらえるのが嬉しくて、異性と会うのがなんとなくこそばゆくて、恋心なんか無いくせに擬似恋愛を楽しんでいた。
しかし、すぐに「なんか違うな」と気づいてしまい、1ヶ月ほどで関係は途絶えた。

深入りしてはいけないと思い、私から離れたのだ。
ところが、そこで終わりではなかった。
会社で接点は無かったものの、行き帰りに彼がつきまとってくるようになったのだ。

ストーカー、とまではいかないかもしれないけど、私には恐怖でしかなかった。
そして、私の精神状態と口唇ヘルペスの進行は、明らかにリンクしていた。

朝に夕に、通勤の道のりに怯える日々。
夏につきまいに遭うようになり、通勤経路を変えた。
わざわざ遠回りして、会社から離れた路線の駅で降りて、駅から会社まで20分歩いた。

葛藤は半年ほど続いた。
理由あって工場が閉鎖することになり、私達はちりぢりになった。

片道40分だった通勤時間が、電車を乗り継いで1時間半に変わった。
勤務地が変わり、彼が視界から消えた。

新しい勤務地に出勤する日、私はマスクをしていなかった。
ものの見事に、口唇ヘルペスは消え去ったのだ。

今思えば、幼かったのだと思う。
彼にしてみれば、ずいぶんな仕打ちを受けたその報いだったのだろう。
ストレスが身体に変調を与えたのは、あのときが最もひどかった。

今でもたまに、口の端が切れることがある。
寝不足のとき、気になることがあるとき、体調がイマイチのとき、ストレスが溜まっているとき…。

わかりやすい、身体のサイン。
ストレスに侵されると、ひび割れる唇。
今も気になることがある。

触れてはいけない。
原因を取り除くことを考えなければ。
私の身体が叫んでる。
浸食リップはその証だ。

もし、あなたの心に少しでも安らぎや幸福感が戻ってきたのなら、幸いです。 私はいつでもにここいます。