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私はその人を常に先生と呼んでいた。

人が好きだ。
とくに、言葉を丁寧に紡ぐ人が好きだ。

「会わない」よりも「会えない」
「頑張る」よりも「頑張れる」
「嫌い」よりも「好きじゃない」「苦手」
「じゃあね」よりも「またね」
「ごめんなさい」「すみません」よりも「ありがとう」

些細な表現にまで気を配っている人が好きだ。

大学1年生のとき、基礎演習というゼミのような授業があった。
わたしのクラスを担当してくださった先生はとても素敵な人だ。
先生のおかげで読みやすい文章が書けるようになった。もちろん、当社比で。
とくに、noteは最初の頃よりもいろいろなことに気を配るようになった。読み返してみると今の方が読みやすいと思う。…だといいな。
今の大学に入ってよかったと思える理由のひとつが、先生だ。

(自分の投稿を読み返していたら、同じく「人が好き」というものを発掘した。今の方が読みやすいと良いな、の気持ちで載せておくのでぜひ合わせて読んでいただけたら!)

そんな先生は5月中旬の授業で「悪くないのに謝る人が多い」といった内容の新聞記事を紹介し、「私もそう感じる」とおっしゃっていた。

心配してもらったとき。
物を取ってもらったとき。
ドアを開けてもらったとき。

何かをしてもらったら「ありがとう」よりも「すみません」「ごめん」と言う人が多いような気がする。

かくいうわたしも、この前いつもであれば「ありがとう」と言える場面で「ごめんね」と言ってしまった。
ひとつ前の投稿の通り、思っていたよりもずっとずっと最悪だった6月の出来事である。
わたしのことを心配してくれた人がいて、でもわたしはそれに「心配かけてごめん」と返してしまった。
普段のわたしは、それはそれはポジティブで自己肯定感も低くはない。
だけど、そのときのわたしはいろいろなことが重なっていて、自分のことが心から嫌になっていた。

どうしてこのときのわたしは「ごめんね」という言葉を選んだのだろう。
たぶん、わたしは怖かったのだと思う。
おそらくその人は、このnoteを読まないだろうから書けるけど、その人に嫌われることが怖いのだと思う。
すぐ病む人だと、面倒な女だと思われたくなくて、謝れば嫌われないで済む、まだ一緒にいられる。そんなふうに思って出た言葉だったのかもしれない。
驚いたな、人には執着しないようにしようと決めていたのにな。

わたしは、人が好きである。
以前、部活の同期に「男好きだと思っていたけど、ただの人間好きだった」なんてぎり失礼なことを言われた。自他ともに認める人間好きっぽい。
家族以外の人に何日も会えないと、寂しくなってしまう。

だけど、だからこそ特定の人に執着しないと決めている。
それこそ高校2年生までのわたしは、「来るもの拒まず、去るもの追わず」で生きていた。
来るもの拒まずでいると、面倒ごとに巻き込まれることは、中学2年生のときに学んだ。
拒むのは賢い方法を取るべきだけど、自分の心を守るためには、来るものを拒むことがあっても良い。

去る者を追わない理由は単純に、時間がもったいないからだ。
わたしは、わたしのことを大切にしてくれている人たちのために時間とお金を使いたい。

だから、「来る者たまに拒み、去る者追わず。」
これくらいでちょうど良い。それが良い。

だけど、その人が去るときは追ってしまうかもしれないな。現段階では。
人の気持ちは変わるものだし、1年後どころか明日のわたしがどう思っているのか分からない。
ただ、少なくとも今日のわたしだったら追ってしまうと思う。
今年で人間歴22年目になるが、誰かが去るときに追った経験はない。
そんなわたしを、わたしは知らない。どうなるのだろう。
願わくば、そんな経験はしたくないのだけど。

ところで、わたしが嫌われたくないと思ってしまったその人がわたしのnote読んでくれていたらどうしよう。ここまで書き上げておいて今更おもった。
嬉しいやら恥ずかしいやら。

わたしのnoteを読んでくれている友人は何人かいる。ありがたいね。
学部の友人はわたしのクリエイターページがSafariに開いたままになっていて、暇なときに過去の投稿を読み返してくれているらしい。
彼女は「言語化が上手いよね」と褒めてくれた。
思っていたよりもずっとずっと最悪だった6月の、数少ない嬉しかった出来事だった。
いえ〜い見てる〜〜〜? 夏休み楽しもうね〜

まあ仮に追ってしまうかもしれないその人が読んでくれたとて、自分のことだとは思わないか。
たぶん、きっと、Probably、大丈夫。


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