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『まちがい』のはなし

"間違える" ことって、冷静に考えるとすばらしいと思いませんか?

たとえば提出物の出し忘れ。「ああ、しまった。先週は覚えていたのに・・・」と肩を落としているあなた。大丈夫、その行為はとてもかけがえのない事実を意味しています。

そう、あなたが人間である証拠です。

あっ身構えないで。大丈夫大丈夫、新興宗教の勧誘ではないので、大丈夫です。まあ、このパターンは「大丈夫です」っていうほど墓穴を掘るヤツですね。もう「大丈夫」は3回も使ってしまったので、以下でちゃんと説明します。

考えてみると、物理法則には間違いがない。木からリンゴが落ちるとき、「あっ、地面に落とし忘れたわ」となることはない。原因と結果は数式をはじめとした表現で記述されていて、因果関係がゆらぐことはおそらくない。

だけど人は忘れるという間違いを犯す。いつもはしっかり忘れないのに、たまにやらなきゃいけないことをやらなかったり、伝えることを伝えなかったり。物理法則と違って、同じ状況であっても必ずしも同じことをするわけではない。

それって不思議。状況が同じなのに、やることが違う。ゆえに予測が難しく、原因と結果を100%的中させる完全な記述はできない。

それゆえに心理学ってものが発達してきたのかもしれないけど、心理学実験は再現性の危機と闘っている。つまり同じ状況下においたにもかかわらず、異なる結果が導かれるケースがままあるらしい。それはコントロールできていない要因の存在なのか、人間が生来的にもっている判断の揺らぎがあるのか、そこは専門じゃないから正直分からないんだけれど、どうしても物理法則を相手にした実験よりかは再現性が低いみたい。

それってさ、裏を返せば人間の判断の複雑性の神秘性を表していると思うんだ。

哲学の領域では自分の行動は自分の意思で制御できるという「自由意思」と、あらかじめすべて物理法則で決まっているんだぜという「決定論」のどちらが本当なのか、あるいはハイブリッドなのか、という問題が大きな問いとして君臨していると聞いた。

僕は自由意思を肯定したい。学説的に支持するわけじゃなくて、ただそうだったらいいのにな、という想いだ。

人間は間違える。決定論的に考えるとその間違いすらも何かしらの運命で決定していたと考えるのだろうけど、そんなのは時間後退的にしか観測できない事実だ。人間は自分の人生を主観的に観測する存在である以上、間違えたか未来と間違えなかった未来が現在の時点ではあるはず。その選択肢が想像できること自体が人間の自由意思の表れであり、人間にしかない特徴、素晴らしい概念だと思う。

これが物理法則だったらそうはいかない。物理法則は間違えない。いつだって超合理的で然るべき振る舞いをする。

だからあなたがなにかを間違えたとき、それは人間である証拠を提示したことになる。因果関係がぐるぐると渦まいた物理法則にしたがった行為ではなく、自由意思に従った行為をはたらいたという、素晴らしい証拠じゃないか?

『同じ状況で同じことをする』のが期待されるのであれば、それは物理法則に従った世界に任せれば良いじゃないか。それこそAIにお任せだ。間違えるから人間である。ペニシリンしかり青色LEDしかり、研究・発明のブレイクスルーは人間のうっかりした「間違い」がきっかけとなったらしいじゃないか。なるほど!

そう思っていれば、これから少々、間違えたって平気さ。びびらず気楽に生きていこうじゃないか。

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