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完璧な人 第8話


野々宮さんに何か
お礼をしないと。



貧血のときに
助けてもらったお礼。
美味しい料理を
作ってもらったお礼。
料理を教えて
もらったお礼。




街であらゆるお店を
見て回った。



これは高価すぎて
重いかな。


これは安っぽいかな。


これは使わないかな。


よく分からない。




拓実くんには相談しなかった。
貧血を起こした日、
野々宮さんに助けられたことも
言っていなかった。
何故だかまた傷つけるような
気がしたから。




野々宮さんに対する
コンプレックスだろうか。


ときどき拓実くんは
あからさまな嫌悪感を
彼にぶつけたと思ったら、
妙に彼の真似をしたがる
ときもある。




男の人っていつも
よく分からない。




とにかく
野々宮さんへのお礼は
悩んで悩んで
マドレーヌを作ることにした。




実家で作って
これだけは
上手く出来たもの。




多めに作って
拓実くんにも渡そう。





何とか上手く出来て
ラッピングを整えたとき、
野々宮さんが帰って来たみたいだった。




部屋に渡しに行く。
トントン、とノックを2回。




心臓がバクバクして
緊張が全身に行き渡る。
火照って熱いような
気分が悪くなりそうな感じ。




逃げちゃ駄目。
自分を奮い立たせる。




出て来た野々宮さんは
少し顔が赤い。
お酒、飲んで来たのかな。




緊張で上手く話せたか
覚えていない。
だけど、とりあえず渡せた。
感謝の気持ちは
伝えられた。




その後、彼は少し
おかしな話をした。




酔っているのかな。
いつになくよく笑う。
可愛い。



心臓がまた
ドクンと跳ねる。




その後、髪を撫でられて
唐突に言われた。




「凛、俺の恋人にならないか」








唖然とした。
これは野々宮さんなりの
冗談なんだろうか。
酔っているから?






何も言えなくてただ
彼を凝視した。



「そんな風に見るな」


また、優しい眼で
私に微笑む。




緊張するな、と
ギリギリ聞こえるような声で
呟いた野々宮さんは、
少し視線を横に逸らしてから
もう一度私の方に向き直って、言った。




「好きだよ、凛」


それから綺麗な指先で
私の髪に触れて、

「愛してる」




眼が、嘘じゃないと言っていた。




嬉しい。
嬉しかった。




信じられなくて
自分の耳を疑った。




全身の血が沸き立つように
大暴れして、
どうしたらいいかわからない。



「野々宮さん、」




だけど、その直後、
拓実くんのことを思った。




駄目、
あの優しい人を
傷つけたら駄目だ。





一瞬にして身体中の血が
今度は固まったように
冷たくなった。




駄目だ。




「あの、あのね。
 私、拓実くんと
 お付き合いしているの。
 それで......」




ごめんなさい、と
言いたくない。
どうしても口から
出せなかった。





野々宮さんは一瞬
意外そうに目を見開いて
私を見たけれど、
すぐに足元に視点を落として

「分かった」と言った。




「困らせてごめんな」




そう言われて顔を上げると
明らかに傷ついた顔で苦笑する
野々宮さんがいた。




ドクン!と大きく
心臓が騒いだ。
ぎゅっとそれを強い力で
掴まれて潰されているみたいだ。




手足が冷たくなって
喉が張りついたように渇く。




「またな、凛」



そう言って閉めた彼の
部屋のドアの前から
しばらく動くことが出来ずに
立ち尽くした。







何とか部屋に帰って
ドアに寄りかかり
ずるずるとしゃがみ込んで泣いた。




野々宮さんの傷ついた笑顔が
胸に刺さって苦しい。
罪悪感でいっぱいだった。




脈打つたびに
ツキン、ツキンと
胸が痛む。



私、馬鹿だ。


ようやく自分の想いに気づく。
野々宮さんは
推しなんかじゃなかった。




生きている
近くにいる存在で、
自分のひとことで
傷ついてしまう。




私、野々宮さんが
好きなんだ。
見かけるだけで
心臓が大暴れするほど
ずっと好きだった。
そんなに大好きな人を
傷つけた。


キョーコさんが
助言してくれていたのに
気づかなかった。


馬鹿だった。
こんな馬鹿な人、他にいない。



拓実くんに言わなければ。
また苦しめるけど、
言わなくちゃ。





野々宮さんとは
こんな酷いことをしたから
もう駄目だろう。




だけど、
この思いに気づいてしまったから
拓実くんとは一緒にいられない。







ごめんなさい。
別れて欲しい。




その夜、
拓実くんが帰って来てから
拓実くんの部屋でそう告げた。





彼はいつになく怖い顔で
明後日の方を睨んだあと、

驚くような低い声を
絞り出すように言った。



「海斗さん?」



「えっ?」



「知ってるよ。
 凛ちゃんの目が
 海斗さんを見るときだけ違うこと。
 海斗さんにだけ赤くなること」




怖い。
でも逃げたら駄目だ。




「ごめん、ごめんね拓実くん。
 私、本当に馬鹿なんだけど
 自分の気持ちが
 全然分かっていなかったの」





今までとは
比べようもないほど
冷たい表情のまま
拓実くんが言う。




「海斗さんには
  もう告ったの?」




私は頭を振った。




「野々宮さんには
 恋人にならないかって
 言われたけど、
 私は拓実くんと
 お付き合いしてるから、って
 お断りしたの。


 でも、その後から
 苦しくて。
 ずっとずっと、
 苦しくて。

 やっと自分の気持ちが
 分かったの。


 拓実くんのことは好きだよ。
 でも、好きの種類が違うの。
 ごめんなさい」







「......いい気味」



今まで聞いたことのないような
冷たい声に笑いを含んで言うので
驚いて拓実くんを見たら
何も言えなくなった。





私と眼を合わそうともせずに
とても苦しそうな
顔をしていたから。






「じゃあ凛ちゃんは
 俺と同じ想いをしてるんだ。


 今、凛ちゃんが
 俺にぶつけた痛みと
 同じ苦しみを
 味わってるんだ。




 いい気味だよ」



二度、
まるで強調するように
拓実くんは言った。







「嫌だよ、俺は別れない。


 凛ちゃん、
 もう、海斗さんとはダメだよ。
 あんな完璧な人
 女の人だって選びたい放題だ。


 一度振ったのにまた、なんて
 ムシのいい話だよ」






苦し気な彼に
言わなければならない。





「それでも
 この想いに気づいてしまったから、
 拓実くんとは
 もう付き合えない」





途端に拓実くんが
急に動く。





「どうしてだよ!
 俺は別に構わない。
 凛ちゃんが海斗さんを
 好きなままでも、構わない!


 俺が告る前から
 そうだったよ、凛ちゃん。
 ずっと前から
 海斗さんばかり見ていたよ。
 それでも良かったんだ!
 今までと何も変わらない!


 今度は本当に俺を
 好きにさせてみせるから、
 俺の彼女のままでいてよ!」





強い力で私の両肩を掴み
泣きそうな顔で
理性を無くしたように
普段穏やかな拓実くんが言うから
こう答えるしかなかった。





「ごめんなさい。
 そんな想いで付き合っても
 私たち、傷つくだけだよ。
 もう出来ない」





そう言って
肩にある彼の手を出来るだけ
優しく離して
部屋を出ようと立ち上がる。





「凛ちゃん、
 俺は凛ちゃんの、何だったの」





拓実くんが
掠れた泣きそうな声で
絞り出すように言った。





「大事な人だったよ。
 今だって大事だよ。


 ここに来た時から
 私が慣れるまで、ううん慣れても、
 ずっと気を配ってくれたから、
 優しくしてくれたから、
 私、すぐにここが大好きに
 なることが出来たよ。

 拓実くんがいなかったら
 不可能だったよ。


 いつだって
 一緒にいられて楽しかったよ。
 下らないことも
 嬉しいことも、
 いつも拓実くんに
 話したいと思ってた。



 恋、じゃないって分かったけど
 大事な存在だよ」




俯いたまま
暫く何も言わなかったから
拓実くんに触れようかと
思って手を伸ばしたけど、
やめた。





もう触れてはいけない。
自分がこの関係を
絶ったんだ。





本当にごめんね、拓実くん。





そう言って
その場から去ろうとした私を
拓実くんは低い声で呼び止めた。





「凛ちゃん」




「海斗さんに、ちゃんと言いな。
 全部、想いを、伝えな。
 俺のこと振っといて
 幸せになるための努力を
 しなかったら許さないから」







↓続き(第9話)はこちら。



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