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過去に紡いだことばが、今の私を救うことがある。

と、思ったことがこれまで何度かあった。

私が文章を書きたくなるのは、ことばを紡ぎたくなるのは、心が揺さぶられたとき。

いや、揺さぶられなくても何かをぐるぐると考えていることが多くて、そのぐるぐるで脳内がキャパオーバーになるのを防ぐためにことばに起こしながら整理をして、いったん書ききって満足するみたいな感覚かな。これ分かる人いるかしら。

個人的にはデトックスみたいな感覚。でも、自分の中に溜まっているものも、結果として出てくるものも「毒素」ではないからイコールではないのだけど。

まあそんな感じで、日頃から自分の中で起こるぐるぐるを体外に出しているのだけど、でも別にそれをすべてSNSとかに載せるわけでもないから、iPhoneのメモ帳とかが雑記のようにすごいことになるんだよね。今よりTwitter(X)やってたころはものすごく下書きが溜まっていたし。

てな感じの人間なので、もちろんnoteにも下書きがたんまりある。

1つ前の投稿が、1年半ぶりくらいになってしまったんだけど、そのときに下書きがいくつかあるのに気づいて、最新の下書きを読んでみた。2023年のお正月ごろに書いたもの。けっこうちゃんと文章になってたけど、なぜか投稿されていなかったもの。これが、ちょっとだけ、今の自分を救ってくれた。不覚にも。

せっかくだから、今このタイミングで載せておこうと思う。

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2022年はお別れの多い1年だった。

当たり前に生きている今日が、無事に新しい年を迎えられることが、どれだけ幸せで、奇跡的なことか、実感しています。日常に感謝しなければいけない。

悲しい出来事があっても時は流れるもので、頑張らなければいけない場面は待ってくれるわけでもなく、忙しなく新年を迎えていました。

2022年は、頑張らなければ、頑張らなければ、
という気持ちが大きすぎて、うまく進めないことが多かった。

自分の描く「理想」と「現状」のギャップが大きくて苦しくて。でも、その「理想」って本当に「なりたい自分」なのだろうか?と思い返すことがたくさんあった。完璧に「理想」になった先に、「私らしさ」はあるのだろうか?と。

現状維持だけじゃなくて、変わっていくことは大切だけど、まるっきり自分を入れ替える、これまでの自分をなかったことにするのは違う気がする。

ちゃんと、「現状」を受け入れなさい、という話ね。「ダメな自分」を受け入れなさいということね。受け入れてみたら、意外と、「ダメじゃないこと」があったりするんだと思う。よくないな、って思う部分はしっかり反省すればいい。

今年もたくさん頑張るけれど、何よりも自分らしさを大切にしていきたい。あとは、周りに弱音を吐ける、弱い部分を見せられる強さを持ちたい。

あと数ヶ月で、たくさんの思い出がある環境、そこで出会った大切な人たちと過ごせる日常が終わると思うと今から胸がきゅーって痛くなるけど、この思い出や出会いが今後も私の背中をたくさん押してくれるのだろうな〜と思います。まずはこの数ヶ月、がむしゃらに楽しく、大切に過ごしてね、自分。

2022年に限らず、私は周りの人に恵まれすぎていて、たくさん支えてもらって、生きていけている。2023年は、感謝をことばだけでなく、行動で返していけるような人間になりたい。

さてと、バイト3つ掛け持ち生活も3ヶ月目。1日に何回もシフト表を確認する。ごっちゃになる。学生時代過去一の労働時間になりそうな1月、年始から鬼のようにがんばっています〜
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何が自分を救ったのかって、このあたり。

自分の描く「理想」と「現状」のギャップが大きくて苦しくて。でも、その「理想」って本当に「なりたい自分」なのだろうか?と思い返すことがたくさんあった。完璧に「理想」になった先に、「私らしさ」はあるのだろうか?と。

現状維持だけじゃなくて、変わっていくことは大切だけど、まるっきり自分を入れ替える、これまでの自分をなかったことにするのは違う気がする。

ちゃんと、「現状」を受け入れなさい、という話ね。「ダメな自分」を受け入れなさいということね。受け入れてみたら、意外と、「ダメじゃないこと」があったりするんだと思う。

救ったと言ったら大げさかもしれないんだけど、本当につい最近「自分らしさ」みたいな部分をすごく考えていたから、なんか改めて自分が大切にしたい部分に立ち返れたというか。

おそらく性格的に、意外と向上心が高くて、現状に満足しないタイプなのかなと思っていて。でもそれは熱量というよりかは、自信のなさみたいな部分が引き金になっていて、誰かを見て「自分もこうなりたい」「こうなれたらいいのに」とすぐ思うような感じ。

それがいわゆる「理想」。私の場合、「理想」が比較的他人寄りになりすぎてしまうことが多くて、憧れる人がいたら1から100までその人にならなければいけない、みたいな。でもそれってとても怖いことだと、当時の私は気づいたんじゃないかな、「私」がゼロになるのでは?と。憧れている人が多いほうだから、全部取り入れられたらそれはそれで私のオリジナルかもしれないけど、純粋な「私」はゼロになってしまうかもしれない。

もちろん「自分らしさ」は流動的でよくて、どんどん変わっていくことはいいと思うけど、周りを見すぎるのもどうなのかなと。今の自分でいいと思える部分はちゃんと守っていきたい。

今、社会人になって「自分には何もできない」とか、「周りはこんなにすごいのに」とか、考えるわけですよ。もちろん、ちゃんと自分の課題と向き合って成長していくのは大切なんだけど、そこで自分を全否定する必要はないんだよね、きっと。それが、「「ダメな自分」を受け入れてみたら、意外と、「ダメじゃないこと」があったりするんだと思う。」の部分かな。

けっこう私はこれに救われた。今の悩みにフィットした。また明日から頑張れる。大げさかもしれないけどね。

だからさ、やっぱりことばに残しておくってとても大切なんだと思った。自分のことばに救われるって聞こえ方によってはすごいナルシスト?っぽいし、いつも同じことで悩んでて前進できていない感じもしちゃうけど。

でも、そうじゃなくて、きっと自分の中で大切にしたいこととかがあってもそれを保っていくのってたぶん難しくて、そこに立ち戻らせてくれるのが、ことばなんだと思う。

実際、このnoteの下書きで書いていた内容は、まったく覚えていなかった。読んだらそのときこんなこと思ってたな~って思い出したけどね。でもこの下書きがなかったら思い出せなかったと思うと若干ゾッとするまである。(ちなみに、最後の文章で、今年の1月卒論あるのにめっちゃバイトしてたことも思い出してとても懐かしかった。そういうのも思い出せるからいいよね。あと、福島での経験が自分を支えてくれるんだろうな、という予想、実際に当たってるよ〜!とも思えた。)

やっぱりことばにしておくって本当に大切だなと改めて思った。

私のことばが、誰のためにもならなくても、誰のことも救えなくても、私のことを救うときがあるのならば、それでいいや。それだけでも、今ことばを紡ぐことに意味があると思える。そう思いながらまたこれを書いている。

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