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コレジャナイ

 私がもう少し若かった頃のこと。

 商店街のある街に住むことになり、八百屋さんの前を通りかかった。

「そういえば、この間までこの街に住んでいた人が、このお店でよく買い物をした、って言ってたな」

 と思いだし、立ち止まった。

 買おうと思って立ち寄ったわけではない。
 スーパーに行く途中だったけれど、教えてくれた人が言っていた通り、体に優しそうな商品が多そうだなと思って、店先のほうれん草をみていた。

 ちょうど、スーパーでほうれん草を買おうと思っていたし、参考までにいくらなのかな、と値段を探したりもした。

 すると奥から年輩の店員さんが現れ、「ハイこんにちは。何にしましょ」と聞かれたので、「あ、いえ。ほうれん草を、ちょっと…」と曖昧に返事をした。

 「を、ちょっと…」に、見ていただけ、という言外のニュアンスを含んだつもりだったのだが、彼女はさっとほうれん草の山から一把を取り、「はい」と私に手渡した。

 スーパーに慣れ切って、油断していた。

 「ほうれん草(が欲しい)」といって、ほうれん草を「はい」と渡されて、「いや、要りません」とは言えない。

 個人商店というのはそういえば、こういうものだった。
 商品を「私」は選べないのだ。

 お店の人にとって商品はどれも品質の同じものに違いない。それにお店の人なのだから客より確実に目利きであるだろう。

 若干困惑しつつ、「ハイどーもありがとね~」というニコニコと愛想のいい店員さんからほうれん草を買って、呆然と帰宅した。

 いや、確かに「ほうれん草」に違いないし、「ほうれん草を買おう」と思っていて「ほうれん草を手に入れた」のだから、いったい何の問題があるのだろう、と思うかもしれない。私もそう思う。

 そう思いながらも釈然とせず、不満と戸惑いを感じていた。

 どれにします?と聞いてほしかった自分がいた。
 せめて、私が選ぶのを待ってほしかった。

 初めて行ったお店の、初めて出会った店員さんだ。

 常連で、顔を見ただけで何を求めてきたか理解してくれたり、「あら奥さん男爵のいいのが入ったのよ」的なリコメンドや、「ほうれんそ…」「はいっ」的なスピード感は、全く求めていなかった。

 なんだろう、このモヤモヤは、と思った。

 そして、

つまり私は、どれもでもよくないのね。

 ということに、やっと気づいた。

 いつの間にか、「ありとあらゆるものを自分が選ぶ(選べる)」と思うようになっていた。ほうれん草すらも選ばないと気が済まないことになっていのだ。

 こっちのは、根元に土がつきすぎている。
 あっちのは、葉っぱに少し元気がないし、葉先の黄色いのが混じってる。

 見た目と分量、値段に、おおいに納得して初めてカゴにいれる。売り場の前に立ってしばし時がかかる。それが当たりまえで、選んで買うのは、私にとって「常識」だった。

 その時八百屋さんが手渡してくれたほうれん草は、帰宅後おいしくいただいたが、心のどこかにいつまでもひっかかりを感じていた。

「はい」と渡されたそれは、私の納得とは無縁の選択によって選ばれしものに違いなかった。しかも店員さんは、一番上にあったものを無造作に手に取ったにすぎない。

 昭和の昔、幼い私がお使いに行ったときは、近所の八百屋さんなどで「お豆腐ください」といってかごにお豆腐を入れてもらっていたのに、いつからこんなに「こだわる」ようになったのだろう。

 スーパーでは、商品を見たか見ないかのうちに上からパッと取ってカゴに入れていく方も多い。「キャベツ」「玉ねぎ」というカテゴリに属するものに違いはないわけで、その中の「よりよい個体」を選ぶ必要性は感じていらっしゃらないようだ。

 かと思えば、ネットスーパーの注文品でもあろうか、店員さんが吟味して選んでいるのに遭遇することもある。「袋に穴があいてた」「ネギの先端が茶色じゃないか」というクレームになってはたまらないので、しっかり目を配って商品をカゴにいれているようだ。

 買い物途中のみなさんの買い物の仕方は、本当に千差万別だなと思う。それぞれのルールに則ってカゴにモノを入れている。

 それから考えると、確かに私は「こだわるほう」だ。

 理由のひとつには「失敗への恐れ」がある。

 よく見ずに買った野菜を家で裏かえしたら傷がついていたり。
 ピーマンの袋を開けたら一つ茶色くなっていたり。

 そんな失敗を繰り返して、より慎重になったと思うし、それらは全て消費者責任なのだと思い込んでいて、事故は「自分が」未然に防がなければと躍起になっているのだと思う。

 同じカテゴリならなんでもいい、に、どうしてもなれない。

 そういえば以前「コレジャナイロボ」というのがあった。
 今でも売っているのだろうか、と思って検索したら、あった。

  どうやら今も売っているらしい。

子供にロボットの玩具をねだられた親が、間違えてちっとも格好良くない別のロボットの玩具を買って来てしまった。―というシチュエーションを思い起こさせるような姿のロボット玩具。ネーミングは前述の状況で子供の発する「(僕が欲しかったのは)これじゃない!」の声から。

Wikipediaより

 これは、昭和の子供にはよくあったことだ。

 「太郎、もうすぐ誕生日だろ。何がいい」
 と、ある日のお父さん。
 「超合金のロボットが欲しい!マジンガーZ」
 が。戦中戦後の荒波を乗り越えてきたお父さんに「マジンガーなんとか」はうまく伝わらない。
「よしよし、わかった。ロボットだな」
 そう言ってお父さんが太郎にプレゼントしたのはマジンガーZとは似ても似つかない代物。
 実はそれはお父さんが昨夜寝ずに日曜大工で拵えたものだったのだが、そんなこと知る由もなくというより知ってたとしてもそんなことはどうでもよく、マジンガーZじゃないことに泣きわめく子供。
 お父さんは困惑。
 だってほら、ロボットだろ。これお父さん一生懸命作ったんだぜ?
 マジンガーなんとかよりずっと手がかかってて、すごいんだぜ。
 近所の子供はみんなかっこいいマジンガーZを持っているというのに…
 子供は叫ぶ。「コレジャナーイ!」

昭和の「コレジャナイ」ストーリーを勝手に想像してみた。
昭和の男性って「だぜ」って言ってましたね。
あ。ソコジャナイ?

 うん。昭和は似たり寄ったりのことがよくあった。

 リカちゃん、と言ったらバービーだったりメルちゃんだったり。
 ―――確かに人形だけれども。
 コロコロを頼んだら、別冊だったり。
 ―――確かに見分けがつかないけれども。

 今はアマゾンのサイトで「これ?これでいいの?」と子供に確認してポチッとすればいいことになっていて、隔世の感がある。

 かつてコレジャナイを経験した大人は、ポケモンのゲームソフトの『ブリリアントダイヤモンド』と『シャイニングパール』を間違えたりはしないが、全く興味のない分野だったり、祖父母の立場にたつとどっちだって同じだろうと思ってしまうのは仕方がない気がする。

 昭和のはじめから髪を洗い始めた日本人。
 最初は1種類、その後の洗髪の習慣の普及で爆発的にシャンプーの種類が増え、いまでは陳列棚がひとつ占領されるほどの種類が出回っている。
 その棚の中にさえも目当ての品がない現代社会。

 全部、ほうれん草でしょ。
 どれだって、ロボットでしょ。
 シャンプーには違いないでしょ。

 とは、いかないのだ。
 現代社会人は、毎日何かを選んで暮らしている。

 例の、ほうれん草を買って帰った日は、

 「ほうれん草ですら自分の選んだものじゃないという不満を抱えるに至ったとは…」

 と、自分でも驚いたものだったが、その後ますますモノは細分化されて、「コレジャナイ」ものが増えていくばかりだ。

 モノが豊かに、多種多様になるにつれて、何を買ったらいいかすっかりわからなくなり、いつしか自分の中で「これ」と決めたものを、リピート買いするようになった。

 そう、オンラインショップでよくあるやり方だ。
 あらかじめ「お気に入り」を選択しておけば探さなくてもすぐに選べるという便利機能があるが、あれを実生活でもやっている。

 とにかく、マイ定番を作ってしまえば、悩まなくて済む。

 マスクはこれ、消毒はこれ。
 決まっている。

 吟味して選び、ヨシとなれば採用、何かがない限り半永久雇用だ。
 廃盤になるなどの、よほどのことがない限り。

 同じものを繰り返し買うのは保守的すぎるかもしれないが、ほうれん草すら選り好みする私にとっては、それしか自分の身を守るすべがない、といっても過言ではない。特に、心身が疲れていたころや、更年期の今は。

 そのため、「たまたま偶然に手に入れたものが気に入ってしまって、買い替え時期を迎えたのに同じものが手に入らない」という状況が非常に苦痛だ。

 しかもこれは、珍しい事態ではない。

 試供品をもらって気に入り、本体を買って無くなるたびにレフィルを買っていたファンデが廃盤になる、なんてことは日常茶飯事。

 在庫が無くなる前に、今のうちに買っておいてね!と販売員さんに言われても、それが無くなったらどうすればいいのデスカだってその買い置きもいつかはなくなるんデスヨネと途方に暮れる。

 その日から、ジプシーとして茫漠とした市場マーケットに放り出されるのだ。

 目まぐるしい現代社会において、モノとは案外早くお別れを迎えてしまう。長寿商品だと思っていたカールだってチョコフレークだってもうないのである。

 スマホや家電などは最初から新陳代謝が激しいと思っているし、新機能や高機能への進化も興味深いからあきらめがつくのだが、小さなお気に入りほどもう買えなくなってしまったと知ったときのショックは大きい。

 もう、あなたはいないのね。
 また、旅に出なきゃいけないのね、私…

 好みが細分化され、豊かで贅沢な「コレジャナイ」世界には、そんなもの悲しさが常につきまとっている。





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