Amazing Grace(5)

図1 ベルンハルト・プロックホルスト「よき羊飼い」

前回の投稿で、ジョンが乗った船が嵐に巻き込まれ、その中でジョンが神様に救いを求めたことを書きました。

その思いが通じたのか、ジョンは夕方6時ごろ、誰かが『船から水が引いた』と言う声を耳にしました。助かる見込みが出てきたのです。
ジョンは、神様の御手が働いてくれたことをこの目で見たと思い、神様に祈り始めましたが、信仰を口に出すことができませんでした。
これまでさんざん不信心を重ねていたのに、急に心変わりして『父なる神様』と呼ぶことができなかったのです。

そこでジョンは、改めて主イエス・キリストの生涯と、その死の詳細について記憶を辿りました。
そして、イエスが自分の罪のためではなく、イエスを信じる人たちの罪を償うために十字架にかけられたことをことを思い出しました。
ジョンは、この福音が事実だという証拠がほしいと思いました。
イエスの起こした数々の奇跡を嘘だとさんざん罵倒し、神様を冒涜してきたジョンは、聖書に書かれていることが事実なら、神様の存在も事実であり、その神様が奇跡を起こして助けてくれるかもしれないと考えたのです。

ジョンは、もっと注意深く新約聖書を調べてみようと決断しました。聖書が聖霊に関する書物であることから、聖霊について書かれている部分を調べました。
結果、ジョンは『ルカによる福音書』に、以下のような章句を見つけました。

このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
(ルカによる福音書 第11章 13節)

この章句を読み、ジョンは以下のように考えました。参考文献からそのまま引用させていただきます。

『もし聖書が真実なら、この章句に述べられている事柄も同様に真実である。聖書を正しく理解するためには、聖書のすべてを書かしめている聖霊そのものを私は必要とする。主は、ここで、求める者には聖霊を与えると約束しておられるから、私はお祈りをして、それを求めなければいけない。そして聖霊が神についてのものなら、神は自らの御言葉を実現されるであろう。』

なんとも周りくどい表現ですが、長いこと神様を信じていなかったジョンにとっては、このようなアプローチで神様に近づくしかなかったのだろうと思います。

とにかく、ジョンは神様を信じ、神様が御言葉を実現なさる可能性に希望を見出しましたが、ジョンを取り巻く環境は漆黒の底知れぬ絶望に包まれていました。
船倉の中にあった品物のうち、固定されていなかったものは全て波にさらわれていました。
食料の入った樽は、船の激しい揺れによって粉々に打ち砕かれ、豚や羊などの生きた家畜も全て押し流されていました。
幸い、水は豊富にありましたが、わずかに残った食料は、見たところ乗組員たちの命を一週間程度しか保たせてくれない量でした。
また、船の帆もほとんど吹き飛ばされていましたから、順風が吹いても船の速度は非常にゆっくりでした。
このような中、ジョンは時間があれば聖書を読み、その内容について熟考し、慈悲と教えを仰いで主に祈りを捧げる日々を過ごしました。

そんなある朝、甲板の見張り役が『陸が見える』と叫びました。
乗組員全員がこの声で目を覚まし、甲板に上がってきました。
目を凝らすと、30kmほど先に山のような地形が見えました。船長は、少しばかり残っていたブランデーをみんなに配りました。乗組員たちは喜びのあまり、ブランデーを飲み干し、残っていたパンを全て食べ尽くしてしまいました。
みんなが上機嫌でいる中、一等航海士が重々しい口調で『とにかく陸であってほしいと思う』と口にしました。
この発言を受け、遠くに見える景色は、はたして陸なのかという議論が起きましたが、決着はあっさりとつきました。
夜が急速に明け始め、陸や島だと思っていたものが赤く染まり始め、30分も経たないうちに消えてなくなったのです。
彼らは、雲を陸だと勘違いして見ていたのでした。結局、あまりにも軽率にパンとブランデーを浪費したに過ぎませんでした。
さらに、その日は風がおさまって凪になり、翌朝から強い逆風が南西から吹き始め、それが2週間も続きました。船の損傷がひどい側に風を受け続けたので、いつまで持ちこたえられるかわかりませんでした。
目的地であるアイルランドの港からはどんどん遠ざかり、スコットランド西のルイス島まで流されました。

食料はいよいよ底をつき始め、ニューファウンドランド島で釣った鱈の塩漬け半匹が、12人の一日の食料でした。酷寒の中、着る物もパンもない有様でした。
加えて、船を水面上に保つために、ポンプによる海水の汲み出し作業を止めることはできませんでした。
食料不足と過酷な労働のために、乗組員の一人が命を落としました。ジョンたちは、このまま餓死するのか、それとも互いに食い合うまで成り下がるのか、ギリギリの状態まで追い詰められていました。
しかしジョンは、神様にお祈りを続けていたので、全ての不安に勝る希望を抱いて毎日を過ごしていました。

誰の顔にも絶望感が漂い始めていたとき、ふいに風の向きが変わりました。しかもその風は、船の損傷部分に一番負荷をかけずに、また数少ない残りの帆が耐えられる程度の強さで吹いていました。
嵐の季節だったのにも関わらず、風はほぼ一定の強さで吹き続けました。
ジョンたちは、陸を見るようにもう一度甲板に集められ、今度は全員がはっきりと陸だと確認できました。
アイルランド北にあるトーリー島が見えてきて、翌4月8日にはスウィリー湾に入り、錨を下すことができました。嵐に遭遇してから4週間経っていました。

船が港に入るとき、最後の食料が鍋の中でぐつぐつと音を立てていました。
そして、港に入って2時間もしないうちに、風が猛烈な勢いで吹き始めました。
まさに、神様はジョンたちが安全に港に到着するまで、風を操ってくださっていたのです。

ルカによる福音書に、以下のような内容があります。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカによる福音書 第15章 4節〜7節)

幼少期に母親から聖書の内容を聞いていたのに、奴隷商人となって人の命を粗末に扱い、神様への冒涜を繰り返していたジョンは、神様にとってまさに『見失った羊』だったのでしょう。
その彼が、自分の命の危機に際し、心の底から真剣に神様に祈り求め、悔い改めたことは、神様にとってはとても喜ばしいことであり、奇跡を起こして彼を救ってくださったのだと思います。

しかし、この奇跡は、ジョンだから起こすことができたのでしょうか。
いえ、私はそうは思いません。
神様は、ご自分にかたどられて私たち人類を創造なさいました。
旧約聖書の創世記には、こう書かれてあります。

神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって人を創造された。
男と女に想像された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
(創世記 第1章 27節〜28節)


私たちは全員、神様から祝福され、愛を受けた存在なのです。
しかし、サタンは様々な嘘をつき、私たちが神様の存在を感じられないようにしてきました。
そういう意味では、私たちは全員、神様からすると『見失った羊』なのです。
そしてこの終わりのとき、私たちの生活はどんどん苦しくなっています。
物価の高騰、政治の腐敗、偽宗教の乱立、そして戦争…まさに、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に書かれてある状況そのままです。

そしてこの時代、神様はあえて私たちの生活を苦しくして、私たちが神様に救いを祈り求めるしかないような状況を作っていらっしゃいます。
私たちが心から神様に救いを祈り求めることが神様の御心なら、それに従うことが知恵だと、私は思います。
そうすれば、きっと神様は『見失った羊を見つけることができた』と、ことのほか喜ばれることでしょう。
そして、あなたが心から悔い改め、神様に縋りつくなら、あなたの運命が好転するように計らってくださることでしょう。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

参考文献:
「アメージング・グレース」物語(増補版)
   ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝
 ジョン・ニュートン著  中澤幸夫 編訳

画像引用元:夏目漱石と明治国家7 『三四郎』(7)三四郎と美禰子③


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