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昭和、平成、そして令和~始まりはいつも大変~

日本の元号が変わり、変わった元号の令和も5年が終わろうとしています。昭和、平成の始まりを振り返り、令和はどう生きる時代なのかを考えてみたいと思います。

【昭和の始まりは昭和恐慌】

第一次世界大戦(1914年から1918年/大正3年から大正7年)によって日本は好景気を迎えていましたが、大戦が終結すると好景気から一転し、日本経済は不況へと転落しました。

貿易は輸入超過となり、国内生産が圧迫されました。その後、株式市場の暴落を契機に戦後恐慌が発生しました。綿花などは半値以下にまで転落するほどひどい状況でした。

そして、1923年(大正12年)関東大震災が発生し、震災恐慌となりました。これを受け、第二次山本権平内閣はモラトリアムを発令し、さらに政府は日本銀行に特別融資を行わせ、恐慌の鎮静化を図ります。

しかし、決済が不可能となった手形(震災手形)が発生し、不況は慢性化していくことになりました。

1926年、大正から昭和へと時代が移り変わると、翌1927年(昭和2年)に不良債権化した震災手形の処理をめぐって議会で審議が行われました。

その議会で、片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました」という失言をしました。これにより、銀行では取り付け騒ぎが発生し、銀行の休業が相次ぐことになったのです。

また、戦後の不況により鈴木商店が倒産したことで、鈴木商店への巨額の不良債権を抱えていた台湾銀行は経営難に陥りました。鈴木商店は三井や三菱に迫る勢いで成長を遂げていた総合商社でした。

そこで、第一次若槻礼次郎内閣は台湾銀行を救済するために緊急勅令を出そうとしましたが、枢密院が否決したために勅令は出せず、若槻内閣は総辞職を余儀なくされました。

これら主に1927年(昭和2年)に起こったものを金融恐慌と呼びます。

その後、田中義一内閣が組閣すると3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令し、さらに日銀非常貸出で休業していた銀行を救済したことで、金融恐慌を鎮めました。

次の浜口雄幸内閣、その次の第二次若槻礼次郎内閣の時には、伊能準之助が蔵相に就任します。これは井上財政と呼ばれます。

1917年(大正6年)以来、日本では金輸出禁止がとられていましたが、欧米では第一次世界大戦後に金本位制に復活がなされていたため、欧米にならい金本位制をとり貿易を再興させる声が上がってきました。

そこで、井上準之助は徹底的な緊縮財政を行い、産業の合理化を図ります。そして、1930年(昭和5年)には金輸出解禁(金解禁)を実施し、欧米に追いつこうとしました。

しかし、1929年(昭和4年)米国ニューヨークのウォール街で株価が暴落したことで、世界恐慌が発生します。井上準之助は、好景気の米国に金解禁を行うことで輸出を増やし、日本社会を好景気にしようと計画していましたが、世界恐慌と金解禁の二重の打撃によって深刻な恐慌へと陥りました。

これが昭和恐慌です。

昭和恐慌が発生すると、国内では輸出が大幅に減少して輸入超過となり、正貨が海外に流出。倒産が相次いで起こり、産業合理化によって失業者が大量に出ました。また、失業者増加に伴い、労働争議の件数も増えてしまいます。

そこで政府は1931年(昭和6年)に重要産業統制法を制定し、カルテルの結成を促しました。

恐慌の影響は凄まじく、農村にも広がっていきました。米価をはじめとする農産物は暴落し、1930年(昭和5年)は豊作であったため「豊作貧乏」の状態となり、農家は大打撃を受けました。

しかし、翌1931年(昭和6年)には凶作となり、東北地方をはじめとする農村は著しく困窮(農業恐慌)することとなりました。農村での恐慌は欠食児童や女子の身売りにまで発展しました。

これらの日本全体での深刻な恐慌を前に、政党や財閥を批判する声が高まることとなりました。

1931年(昭和6年)に犬養毅内閣が組閣すると、高橋是清が蔵相となり、これは井上財政と対比されて高橋財政と呼ばれます。

高橋是清は、金輸出再禁止を実行して円の金への兌換を禁止しました。そして、管理通貨制度への移行を実行します。

高橋財政が制度を移行したことで通貨価値が下落して円安となり、輸出が有利になりました。例えば、1934年(昭和9年)には綿織物の輸出が世界一位になり、成長を遂げました。

高橋財政はインフレ政策であり、積極財政が可能であったことで、財政膨張政策であると言えます。また、満州事変により重工業が発展し、世界恐慌以前の生産水準を回復させ、日本製鉄会社の誕生や日産・日窒とった新興財閥の台頭もみられるようになりました。

犬養毅内閣時に、高橋財政によって昭和恐慌から脱出したといえます。

これは、昭和の始まりにあった出来事です。

【平成の始まりはバルブ崩壊】

1980年(昭和55年)代の米国はベトナム戦争の後遺症や、外国製の製品がどんどん売れ始め、米国製品が売れなくなり、景気が悪化していました。

特に日本製品は米国の製品のシェアを奪い、米国で売り上げを伸ばし続けていました。その背景にはドルに対して、円が安いことがあるとみられていました。そこで、米国はドルを切り下げることによって、円高に誘導し、米国への日本の輸出を抑え込む政策をとってきました。

これをプラザ合意と言いますが、これによって日本とドルのレートはプラザ合意の前に1ドル240円台だったレートは一年後には130円台となり、急激な円高が進行しました。日本は円高不況と呼ばれる不況に陥っていきました。

企業は海外で売れなくなった分、国内での売り上げを伸ばすべく国内での設備投資を増やしていきました。さらに日銀は公定歩合という銀行に対する金利を下げることによって、企業がお金を借りやすくするという状況を作り出していきました。

これによって、国内の土地の価格が急激に上昇します。土地神話という土地の価格は絶対に下がらないという説が広がり、最盛期には東京全体の土地の価格で米国で全土3つ分が買われると言われるぐらいまで土地の価格は上昇しました。いわゆるバブル景気が発生しました。

バブル景気のもう一つの要因は株でした。

1980年代の日本では沢山の国営企業が民営化されました。その中の一つである日本電電公社がNTTとして民営化し、1987年に株式公開を行います。

元国営企業の株であれば、倒産などあり得ないという思惑は国民に広がり、絶対に株価は上がると誰もが感じていました。

上場したNTT株は1株318万円という価格をつけ、莫大な利益を受けた人たちが続出しました。この現象を見て、株式投資ブームがやってきます。人々は株は上昇するものと株式投資をする人が増えていきました。

さらに日本以外の世界が不況だったこともあり、日本の企業は米国の企業や建物を買収していきます。かの有名なロックフェラーセンタービルを三菱地所が買収。世界中を驚かせました。

平成元年には世界の株価時価総額トップ20のうち10を独占し(一位はNTT)、日本国内で空前の好景気が訪れました。

1989年(平成元年)12月29日に日経平均株価は3万8915円17銭を記録、ピークを迎えました。

好景気に湧いた日本でしたが、インフレが加速していくことを懸念した大蔵省と日本銀行はこの過熱しすぎた景気をある程度抑えていく必要があると考えました。

まず、最初に行ったのが金融を引き締めていくことでした。このバブル期の政策を総量規制といいます。

総量規制の主な内容は、「融資の伸び率を貸出し以下にする」「ノンバンク・不動産業・建設業の三業種に融資の実態報告を求める」などの過激に行われていた融資を抑え込むというようなものでした。

さらに公定歩合も2.5%から6%へと引き上げます。これが引き金となり、1990年10月には株価は半値の2万円を切ってしまうというとんでもない事態となります。

日経平均株価が半値になるということは、日本のほとんどの上場企業の株価が大暴落したということですから、日本の経済は大混乱に陥ります。

さらに、1992年東京証券取引所に上場している企業の時価総額は1989年の611兆円から半分の269兆円に大暴落。

(出典:日経新聞2020年11月27日)

そのあおりを受けるかのように地下も大暴落。銀行は多額の不良債権を抱えることになってしまいました。日本のバブルはかくして崩壊しました。

バブルが弾けたことによって企業の経営が悪化。倒産してしまう企業が出始めます。銀行の貸出債権は不良債権化していき、銀行の経営を悪化させていきました。

バブル崩壊時の事件を以下に挙げてみます。


  • 損失補填発覚 1991年(平成3年)6月20日

野村証券が前年初めの株価急落による大口顧客の損失を補填していたことが判明し、野村證券の田淵義久社長と日興証券の岩崎琢弥社長が引責辞任した。

  • イトマン事件 1991年(平成3年)7月23日

大阪の中堅商社・旧イトマンから数千億円ともいわれる巨額の資金が闇の世界に流れた戦後最大級の経済事件で、同社の河村良彦社長と伊藤寿永光元常務、「地下金脈の大物」などと言われた会社役員許永中元受刑者が商法違反容疑などで逮捕された。

  • さらなる損失補填 1991年(平成3年)7月29日

野村、大和、日興、山一の大手証券4社の社長がそれぞれ記者会見し、特定投資家に対する損失補填リストを公表した。補填先は延べ228法人と3個人。補填総額は1283億円。補填先には日本を代表する大企業はじめ公的な資金を運用する団体やノンバンク、地方銀行や農協系金融機関、中小金融機関が含まれていた。

  • 東洋信金事件 1991年(平成3年)8月13日

東洋信用金庫が舞台の巨額不正融資事件で料亭経営者の尾上縫元被告らが逮捕された。兆円単位という個人としては空前絶後の資金を動かし、「なぞの女相場師」と呼ばれた。

  • 2信組乱脈融資 1995年(平成7年)5月10日

1994年12月に破綻した東京協和信用組合と安全信用組合の乱脈融資事件で、東京地検は東京・銀座の「イ・アイ・イ」本社を家宅捜索した。社長の高橋治則氏(故人)は東京協和信組理事長で、バブル期にホテルなどを次々買収し「リゾート王」と呼ばれた。信組破綻をめぐり背任罪で逮捕され、有罪判決を受けた。

  • 大和銀行巨額損失 1995年(平成7年)9月26日

大和銀行ニューヨーク支店で、米国債の売買に絡み11億ドルの損失を出したことが判明。組織ぐるみの損失隠ぺい工作も問われ、米国からの業務撤退に追い込まれた。

  • 三菱銀行と東京銀行の合併 1995年(平成7年)3月28日

都市銀行大手の三菱銀行と東京銀行は28日、来年4月をめどに対等合併することで基本的に合意した。新銀行の預金量は当時、金融債を含めて52兆円に達し、世界最大となった。

  • 日銀特融 1995年(平成7年)8月30日

バブル時代の不動産融資が不良債権化し、経営が悪化した兵庫銀行と木津信用組合に対して、旧大蔵省と日銀は自主再建が困難と判断して破綻処理をする、と発表した。兵庫銀行では、経営破綻が表面化したことで、預金払い戻しなどのための資金繰りが困難になり、日銀は、同行が通常の銀行業務を継続するのに支障がないよう、特別融資(日銀特融)を実施した。

  • 阪和銀行の業務停止命令 1996年(平成8年)11月21日

旧大蔵省は、阪和銀行(本店・和歌山市)に対し、預金の払い戻しを除く業務停止命令を出した。同省が銀行の業務停止命令を出すのは戦後初めて。9月中間決算で、債務超過額が確定分だけで200億円にのぼり、自主再建が困難と判断した。不良債権額は1900億円に達した。

  • 三洋証券倒産 1997年(平成9年)11月3日

準大手証券会社の一角を占めた三洋証券が、バブル時代の過剰投資の影響で経営が悪化、会社更生法の適用申請をした。

  • 拓銀経営破綻 1997年(平成9年)11月17日

巨額の不良債権を抱え、経営不振に陥っていた都市銀行の北海道拓殖銀行が破綻し、北洋銀行への営業譲渡を発表した。

  • 山一証券経営破綻 1997年(平成9年)11月24日

山一証券が自主廃業を決定した。バブル経済崩壊後の株価下落で被った巨額損失を別会社につけかえて決算から外す「飛ばし」による簿外債務の発覚や資金調達が引き金となった。店舗や社員の一部はメリルリンチが引き継いだが、その後、大幅にリストラされた。

  • 長銀、国有化 1998年(平成10年)10月23日

日本長期信用銀行が3400億円の債務超過に陥り、政府は破綻を認定し、長銀の全株式を国が強制的に買い上げる特別公的管理(一時国有化)を決めました。民間銀行の国有化は戦後初。

  • 日債銀、破綻 1998年(平成10年)12月13日

政府は、多額の不良債権を抱えて財務内容が悪化した日本債券信用銀行に対し、金融再生法36条(破綻処理)に基づく特別公的管理(一時国有化)を決めた。破綻を招いた経営陣の刑事責任も追及され、翌年、長銀・日債銀元頭取が相次ぎ粉飾決算の疑いで逮捕された。


このように日本はバブル崩壊以降、金融危機に追い込まれていきました。

バブル崩壊以降、日本は失われた20年とも30年とも言われる停滞期に入っていきました。

【昭和、平成そして令和】

昭和は第一次世界大戦からの大戦景気の崩壊から一連の昭和恐慌へと、平成はバブル景気の崩壊から金融恐慌へとつながっていきました。

令和は、おそらくコロナバブルの崩壊ではないでしょうか。異次元金融緩和は2013年(平成25年)から始まりました。しかし、この大量の国債発行と日銀の国債購入という実質的な財政ファイナンスの政策は、コロナで加速しました。

(出典:TRADING ECONOMICS/日本銀行バランスシート

この後始末をつけなければならないのが令和の始まりです。この大金融緩和の整理をつけるべく日銀の金融政策がどうなるか、又、GDPに対して263%という巨額の国債を発行している政府は金利が上昇した後にどう対応するのか、これが令和の始まりにおける大きな課題ではないでしょうか。

【昭和、平成、そして令和の指針】

昭和は、昭和恐慌から始まり、第二次世界大戦、そして高度経済成長、バブル景気と進みました。この間、独自性よりも、「上手に真似て、オリジナルを超える製品を作っていく」という時代だったように思います。

平成はどうでしょうか。バブル崩壊以降、デフレが長く続きました。平成はユニクロやニトリに代表されるように、デフレの波に乗って、「安くて良いもの」が普及し、それを実現した企業が伸びた時代です。

では、令和はどうでしょうか。令和はこの大金融緩和の後始末をした後に再び昭和のような時代が来るでしょうか。上手にまねて世界に輸出するということで、勝てるのか。それは難しいでしょう。日本より安く製造する国は多数あり、競争に勝つのは厳しい。そして、国内は人口が減少します。さらに、海外でも人口はサハラ砂漠より南側のアフリカはまだまだ伸びますが、世界的に人口の伸びは鈍化しており、もはや作れば売れるの時代は終わっています。

私は令和は「質」の時代だと考えています。

質の高いサービス、質の高い製品を求める人が増え、「質」を意識した企業や人が伸びていくと考えます。世界の人口の伸び率は1%を切り、2060年~65年には世界的に人口減少が起きてきます。そんな中、私たち、とくに日本人は国内でも、海外でも「質の高さ」で勝負すべき時代に入っていると思います。

昭和は昭和恐慌から始まり、その後の昭和時代を作っていき、平成はバブル崩壊からその時代を作っていきました。令和はコロナバブル、大金融緩和の後始末から、時代を形成していきます。その時求められるのは、「質」である、そう考えます。


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