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たとえ今が混迷の時期でも

 囚われた状況にいる人間がその囚われを脱却するのは簡単なことではない。猿から人への意識の立ち上がりが起きていった時代、打製石器の出現が百万年以上前なのに対して磨製石器の出現が数万年前であるという端的な事実は、その後のすべての文明を超えるほどの長きにわたる道のりが「石を磨く」というただそれだけの着想にあることを意味している。

 人の考えは、その人がおかれた環境の様々な条件に制約されながら行われるしかない。奴隷制が滅びた後にはじめて鎖から自由な精神が生まれ、王権が滅びた後にはじめて土地から自由な精神が生まれる。奴隷には自らの隷属に不満を感じることすらできないことも少なくはなかろう。そこから自覚が立ち上がるまでには、囚われつつもそれを脱却しようとした人たちの苦闘がある。真に歴史を開いてきたのは、まさにそういった人たちにほかならない。

 それでは現代はどうだろうか。ぼくたちもまた生活や、仕事や、お金に不安を感じ、その不安に脅迫されるようにして、誰が望むのかわからないような制度を持つ奇怪な社会を生きざるを得ない状況におかれている。それだけではない。自由を目指すはずの芸術の領域にさえ、利害関係があり、ヒエラルキーがある。健全な民主主義の実現を目指す勢力の中にさえ非民主的な抑圧が存在する。いびつな権力と対峙しようとする勢力の中にさえ、いびつな権力がすでに存在する。

 今を生きる人もまた、自由に感じ、自由に考え、自由に表現し、自由に行動するという段階には至っていないわけだ。一人一人が本当に自分の人生を歩める社会を人類はいまだ獲得していないといってもいい。進化論の範疇を逸脱した表現になってしまうけれども、こういった意味で、猿から人への進化――習性から自覚へという発展は、いまだその最後のプロセスを完了できていない。差別や、飢餓や、紛争のある現代は、いわば人類史の中の黎明期の姿なのだ。

 ぼくたちはその黎明期の特異な環境ではぐくまれた感性を持って生きている。「差別はなくならない」「飢餓はなくならない」「紛争はなくならない」――そういったことを感じてしまうのだとしたら、それは黎明期の特異な環境に囚われてしまっている。あたかも中世ヨーロッパの人たちの多くが地平線の果てに流れ落ちる海のさまを思い描いていたように。けれども海の向こうの大陸は存在したのである。

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 情勢は混迷の中にあるかもしれないけれども、混迷ということであれば、日本は30年にわたって混迷を続けてきたといえる。とりわけロスト・ジェネレーション以降の世代は、この日本社会の中でいちばん集中的に絶望を抱えた存在といえるだろう。本当は、団塊の世代でさえもまた、結局のところ残したのがこの今のありさまの日本だという点において、やはり虚無や絶望を抱えているはずなのだけれども――。

 ともかくぼくたちは、こうした絶望を希望に転じることを目指し、自らが味わった絶望や苦しみを除くためにこの社会はどうあらねばならないのかということを思索して、この傷だらけの社会を、本当に生きるに値する社会につくりかえていく必要があるわけだ。

 ぼくたちの後ろには絶望と無力感を味わった世代が続々と押し寄せる。ぼくたちはそれを背中に感じつつ、自分の物の考え方を磨き、知性を磨き、その研ぎ澄まされた刃を握りしめながら、政治における詐欺師、言論における詐欺師、マスコミのペテンに斬り込んでいかなければならない。それを果たすことができるようになったとき、ぼくたちはこの社会に対してただの人間ではなく、変革主体として登場していけることになる。ぼくたちがその先陣に立たなければならないと思う。それができなければ、おそらく日本社会が世界史上まれにみる衰退へと突き進んでいくことを回避するのは難しいだろう。

 安易な希望はたやすく砕かれる。表層のさざ波のようなものではなく、もっと深いところで、確かな希望を築かなければならない。

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 あえて乱暴に表現するとすれば、人類の行く手は大きく二つにわかれている。一つは紆余曲折を経ながらも紛争を解決することがなく、限りある資源を使い果たして舞台を後にする道だ。あと一つは、その否定として存在する未来であり、いわば人と人が対立や囚われた仕組みを乗り越えて、新たな未来社会を切り開くことを可能とする道だ。この素朴といえばあまりに素朴すぎる場合分けを前にしたとき、ぼくたちが前者を目指して生きるのではないことはいうまでもないだろう。そこで後者を前提とすると、その地点からはただちに次の宣言を行うことができる。

「今、この社会のなかにある差別や飢餓や紛争がどれほど強固に感じられたとしても、未来社会において誤っていると判断される限りのものは、必ず変えてゆくことができる」

 現代を生きる人が百年前や千年前の表現物を振り返るのと同じように、未来社会に生きる人たちもまた現代を振り返ることだろう。そのとき現代は差別と紛争にまみれた「原始時代」に見えるだろう。その原始時代に迎合して生きるのか、それとも時代を変えようとして生きていくか。自分はどちらの存在として生きることができるか。ぼくたち一人一人が為すことが未来から見られている。その未来から照射される視線の前に、すべての政治的な愚劣は焼き払われてしまう。

 もちろんその未来社会――いつか現代のぼくたちを振り返るであろう未来社会とは、それ自体が何か客観的なモノとして存在するというわけではない。それはあくまで思い描かれる”モノ”にすぎず、今を生きるぼくたちの手で切り開かれない限り存在することはないのだから。だから、未来社会において誤っていると判断される限りのものは、必ず変えられるというとき、そこには楽観は存在しない。そこで語られる未来が現実のものとなるか否かは、ただ今を生きるぼくたちの手にかかっている。

 ほんとうに世界を変えるのは単なる学者でも政治家でも経済界のリーダーでもありはしない。現代がまたひとつの原始時代である悲しさを自覚し、その原始時代の中を駆けていく人たちだ。あのとき、あの場所で、誰が社会を本当に変える起点になったのかということは、今はわからない。後になって気づく。ぼくはそうした未来社会を目指す立場に立脚する。現代から未来を模索するだけでなく、未来から降り注ぐ視線の一員となろうとして考える。これからどんなに情勢が混迷を極めようと、そうした未来を目指す人たちとともにありたいと思う。

 社会の中で、ただうまく生きて、うまく老いて、うまく死んでいくことの繰り返しが歴史をつくっていくのではない。囚われつつも苦闘する立場をとる人間が、社会を変革する主体となって、歴史をつくるのだ。

P.S.
 未来がどのような方向に開けてくるかは、諦めの強さよりも憧れの強さの方にかかっていると、ぼくは信じている。

 2022.01.01 三春充希

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