語りづらいことを(道券はな)

―― 三巡目「短歌の過去・現在・未来」

 お変わりありませんか。馬場さんにご紹介いただいた『LOVE WAY』、本筋には関係ありませんが、未来とは明日も歌うと約束すること、という箇所に、胸を突かれたような気がしました。また、山崎さんの短歌で誰かと感情の交歓ができるというご指摘、大変心強く思いました。辺見さんが仰る個別と協働との往還の蓄積については、そんなに大きな往還に入っていることが、なんだか怖いような気がしてきました。

 短歌の過去・現在・未来について私が考えたのは、人はこれまでなぜ短歌を詠んできたのか、短歌はこれからも続くのかということです。

  小窓あけ朝顔を見るという歌あり仮設住居に住む人なりや(柏崎驍二『北窓集』)
  歌の作者を知るゆゑ配慮あるらしき批評も聴きぬ被災地の歌会 

 これらは、東日本大震災で被災された方々を詠んだ歌です。私は当初、これは短歌ではなく、随筆のような普段使いの言葉で書いたほうがわかりやすいのではないかと感じました。しかし何度も読むにつれ、この内容は、普段使いの言葉では語りづらいのかもしれないと思うようになりました。それは、突然の災害で身近な人や財産を失った人々の悲しみは、想像を絶するほど大きいからです。その悲しみに作者が深く共感すればするほど、その普段通りではありえない大きな悲しみを表す言葉は、普段使いの言葉からは見つからなくなっていくのでしょう。そんなとき、韻律や定型といった短歌特有の形式を用いることで、作者は普段使いの言葉から離れることができます。そうすることで語りづらさがやわらぎ、語りづらいことはようやく語れるようになるのかもしれません。
 こういった例は、小説にも見られます。

 おはようございます。/こんにちは。/あるいは、こんばんは。/皆さんの想像ラジオ、またまた始まりました。ただ今真夜中の二時四十六分、本日もたとえ上手のおしゃべり屋、DJアークがお送りいたします。

 『想像ラジオ』(いとうせいこう著)は、東日本大震災で被災して常世と黄泉の国のはざまにいる人が、DJ口調で同じ立場にいる人に語り掛ける小説です。これも、普段使いの言葉ではない軽妙な語り口を借りなければ、作者はこの大きな悲しみを語れなかったのだと思います。

 挽歌もまた、身近な人の死という語りづらいものを、短歌の力を借りて語る表現と言えます。次の歌は、「遠い水 春日井健に」と題された連作から引きました。

  花水木四方にひらき我が生にいちにんの師のありし恐懼を(黒瀬珂瀾『空庭』)
  見送りのために買ひたる漆黒のネクタイわれはわが日に還れ(同)

 短歌はこれまで、語りづらいことをそれでも語ろうとする語り手の大きな力となってきました。だから私は、短歌はこれからも続くと思います。世界は語りづらく、そしてそれゆえに語らなければならないことであふれているからです。身近な人を失う悲しみも、労働や家族に起因する感情も、知人へのささやかな感謝でさえ、私たちは時に語るに窮し、言いよどみます。そんなとき、短歌はこれからも何度だって、私たちの背中を押してくれるのだと思います。

  水はいまグラスの淵に張り詰めて静かにそのときを待っている

※2020.2.11 引用歌の誤字を修正しました。(山木)

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