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光の道(山下翔)

――一巡目「私と短歌」

 皆さんの日記を読みながら、なんというか、こんなにも違うものか……とおどろいています。短歌と遭遇した瞬間ってもっと似通ったものだとおもっていました。いまだに、「他者」ということが実感としてはまるでわかっていないのだな、とおもいます。

 田丸さんの「汽車」に促されつつ書いています。高校を卒業するまで住んだまちにも、電車ではなくディーゼル車がはしっていて「汽車」と呼ばれていました。高校二年のころに半分ほどが廃線になってしまったその「汽車」に乗って、このまちに越してきたのでした。

 小学一年のおわり頃から親もとを離れて暮らしています。高校を卒業するまで過ごしたそこは上下関係や規則の厳しいところでしたけれど、一方で、勉強についてはすごく自由でした。やりたいならいくらでもやれる。やれば褒められる。居心地がいい。調子にのって勉強ばかりをするようになりました。「あいつは勉強が好き」「勉強ができるやつ」と思われると話がはやい、以来、勉強しない日は一日もなかったと思います。むろんいいようにおもわない大人もいて、「勉強ができるだけでは人間でない」と罵られることもありました。が、なにか逃げるように勉強へのめりこんでいったような気がします。出口はあったけれど、それが途方もなく遠い。そしてそれは待つしかない、耐えるしかないもの。いかに耐えるか、いかにやり過ごすか、そのことばかりを考えていました。西村さんの日記を読みながら、そんな気持ちが蘇ります。

 中学三年のころ、あるきっかけで、住んでいたところの体制が大きく変わり始めました。それはちょっとしたニュースにもなって逮捕や家宅捜索があり、何人もの大人の出入りがありました。果てしなくおもわれた出口が、一気に目の前までやってきた、そんな興奮と、結局は何も変わらないだろうという諦めが、たがいに湧いてくるようでした。

 そんな折、偶然、中学の同級生が新聞投稿に採用されているのを目にします。いわゆる投書欄で、短いエッセイというか意見文が載っている欄です。あいつが載るのだから自分も、という気持ちで投稿するとすぐに掲載されました。地方の小さな新聞だったからなのですが、図書カードをもらえたことで舞いあがってしまい、いい小遣いかせぎになる、と投稿生活を始めます。

 高校一年も終わろうかというころ、短歌まじりのひとつのエッセイに出会います。中学生のころにかかわりあった方の投稿で、おっ、とおどろき、なにか返事を出すような気持ちで、短歌まじりの文章を書いて投稿しました。これが、自覚的に短歌をつくった、はじめてのことです。短歌へのみちに踏み出した瞬間でした。

 田丸さんの「枡野浩一」も、西村さんの「笹井宏之」も、山川さんの「笹公人」も、そして穂村弘も知らなかった高校生のわたしが、歌集と言えば俵万智の『サラダ記念日』、そして小島ゆかりの入門書を読みながら、短歌のことを少しずつ知っていきます。

 高校三年になると、やはり受験勉強のほうがたのしくなって、短歌とはまた元の関係に戻ってしまいます。この一年あまりの短歌とのかかわりが、再び、自らの芯をとらえるようになったのは、二〇一一年、大学三年の頃でした。

  売れ残りたる天ぷらがうどんつゆよく吸つてけふやはらぐごとし

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