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不連続に劇的に(山下翔)

 西村さんの「コロナ読み」の話を読みながら、似たようなところで「震災読み」の話題をおもいだしました。二〇一一年のあの震災のあとでは、たとえば「津波」という語がそれまでとはちがったニュアンスをもって読まれるようになった、というような話です。むろんそれだけに限りませんが、「震災」というフィルターを通してうたが受け取られるようになった、というのは自身の〈読み〉を振り返ってみても、おもいあたることです。

 あの震災と今般のコロナ禍の相似で言えば、いわゆる自粛ムードのことがおもわれてきます。わたしは二〇一一年、四月から大学三年生になる、という春休み、福岡にいて地震の第一報に触れました。アルバイトへむかう支度をしながら、なかなかテレビの前を離れられずにいたことを覚えています。たいへんなことが起きた、とおもっているうちにどんどん事態が進んでいきました。身のまわりでも、いろいろの行事や、進んでいたプロジェクトがばたばたと中止になりました。いま、あの雰囲気をおもいだしています。

 当時はまだ短歌の世界にどっぷり浸かる、というふうでもなかったので、震災をめぐる短歌のあれこれについてはずっと先、というか、ほとんどここ三四年のうちに知ったことばかりなのですが、あのとき、あのある種の〈空白〉のなかで、二〇一一年十一月、九州大学短歌会を立ち上げました。これが短歌の世界にどっぷり浸かるようになったきっかけです。この〈空白〉もまた、ふたつの災禍の相似かもしれません。現在、西村さんのおっしゃるように、すでにオンラインの歌会や読書会がどんどん立ち上がっていっています。今後はさらに、もっと不連続の動きが起こるのではないか、そうおもっています。

 その九大短歌会ですが、はじめは何をやっていいのかまるで見当つかず、しかし、どうやら歌会というものをやるらしいぞ、という情報だけは得て、参加したこともなければどんなものかもわからない歌会というものを、とりあえずやってみることにしました。そしてどうやら添削というものもあるらしいぞ、という情報を得て、じっさい添削をやっていました。本当にあった怖い話です。

 変化は突然おとずれます。あるとき、九大の卒業生である鯨井可菜子さんが歌会に参加してくださることになりました。そのときの衝撃はなんといったらいいか、その歌評から、はじめて〈読み〉とはどういうことなのか、何についてどう語ることなのか、そして歌会とはどんな〈場〉なのか、ということを知らされたのです。びっくりしました。汗が噴き出しました。劇的ビフォーアフター。それから鯨井さんにさそっていただき、福岡歌会(仮)に参加するようになり、そこでもなんども衝撃を受けるのですが、黒瀬珂瀾さんと出会い、そうやってだんだん、短歌とのつきあい方をわかっていったのです。

 あとから振り返ってみると、それがあたかも一本のなめらかな線のようにつながって見えるできごとであっても、じっさいにはばらばらの点に過ぎない、というようなことがいくらでもあるようにおもいます。物語や歴史になるうちに失われていくその〈ばらばら〉の感じを、ひりひりと見つめながら短歌と現代と共にありたいとおもっています。

  人の気のうすくなりたる帰り路につつじ群れ咲く大口を開けて


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