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過去と手をつないで(山崎聡子)

―― 三巡目「短歌の過去・現在・未来」

 交換日記だと思って気楽に書き進めてきたエッセイの最終回がこんなテーマでとまどった。短歌の現在だっておぼろげにしか見えていないのに、ましてや過去や未来のことなんて……。範囲がひろすぎて、正直、わたしのキャパシティを超えている。と、皆さんに勧めていただいた本(佐藤泰志、むちゃくちゃ面白かったです)を読んで現実逃避しながら考えた。
 でも、短歌を続けるうちに少しずつわかってきたことがある。それは、短歌が「今ここ」だけではなく、過去や未来までをも知らず知らずのうちに抱き込んでしまう文芸だということだ。 
 たとえば、先日参加した歌会でヒヤシンスを詠みこんだ歌がでてきたとき、ある人が「ヒヤシンスと言えば白秋の…」と言いかけた途端、みんながスマフォを駆使して白秋の「ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日」に到達し、そこから歌の評がはじまった。ヒヤシンスのひんやりした寒色がにじむように色づく様子と、恋愛がはじまった瞬間の震えるような心の高まり。その恋が、実は道ならぬ恋であったこと。そんな白秋の先行歌と照らし合わせながら歌を読み解いていくことは、ときに深く、鮮やかにその歌の個性を立ち上げる。短歌をはじめたばかりのころ、歌会で先行歌をすらすら暗誦する“短歌の人たち”に驚いたものだけれど、何年たっても、その儀式めいた瞬間に立ち会うことはわたしにとって至福のときだ。
 今のわたしの表現が過去に確かに繋がっているという感覚。そして、今わたしたちが作っている短歌が未来に手渡されていくのではないかという細い細い願いのようなもの。よく考えると、それが、自分がこの詩形に繋ぎ止められている唯一の理由のような気もしてくる。

 と、ここまで、書いてきて思い出したのが、昨年(2018年)の夏の大会のことだ。「『未来』創刊期の歌人たち―女性歌人を中心に」と題したシンポジウムでは、わたしと飯田彩乃さん、本条恵さん、盛田志保子さんが、わたしたちの祖母世代にあたる女性歌人について話をした。ひと夏をかけて個性の違った書き手たちの歌を読んでいくのはとても楽しい作業だったけれど、わたしが思わず立ち止まってしまったのは、彼女たちが感じていた、少なからず女性であることとも関係している苦しさ、生きづらさのことだ。エッセイに「私は自分を愛しながら、ささやかなものでもよい、もう一つ何か残しておきたいと心から思う」と書き、「アルカリにたなぞこ白く荒るる手を言はるるままに君に示しぬ」という理知的な美しい歌を残した山口智子さんの、たとえば「君がための文學と云ひ切りて湧く淋しさはながく寄り來し故ならむ」という歌。「子が欲しと俄に思ふかなしみはわが仕事場に一日つづきぬ」という歌。この淋しさや苦さは今を生きるわたしたちの中にも存在していて、今日も誰かを苦しめている。短歌を通して彼女たちの肉声を知ることで、わたしは、会ったこともない女性たちと確かに手をつないだと感じたのだった。
 繰り返しになるが、わたしに短歌の未来のことなんかわからない。でも、いつかこうして誰かと感情の交歓ができる。その可能性を少しだけ信じてみたいと思う。

手をつなぐ わたしの胸のまんなかの青葉闇きみに曝して

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