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無意味 nonsense をめぐって(桜井夕也)

※2018年度未来評論・エッセイ賞受賞作品(「未来」2019.1掲載)


  「つまり主体の存在が……」だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ    大辻隆弘

 この小論では以下の二点の説明を試みる。
①  短歌作品において一見無意味な言葉の羅列がなぜ意味を持つのか
② 上記①についてそのメカニズムは何か

 まず①について述べる。
 千野帽子は『俳句いきなり入門』において「私たちが言いたいことは11種類しかない。言いたいことを言うにはツイッターなりフェイスブックなりで呟けばいいだけで、定型詩では『言いたいこと』ではないものを表現すべきではないか」という趣旨のことを述べている。喜怒哀楽快不快好悪等、確かに我々が日常生活において言いたいことは数種類にカテゴライズされ得る。
 宮台真司は「言葉の自動機械をやめろ」という。日常生活のルーティン化した言語使用から脱出せよというメッセージである。背景には言葉の自動機械化による現代の感情の劣化、鈍麻がある。
 ここで思い出すのがアメリカのビートニク作家ウィリアム・バロウズである。バロウズは新聞をハサミで切り刻んでその断片を再度ランダムに組み合わせる「カットアップ」という手法で散文詩を作った。バロウズを代表するスローガンも「言語はウイルスである」である。言語はウイルスである。我々は言語=ウイルスによって「自動的に」喋らされている。故に、ウイルスから逃れるためにカットアップで思考を、言語を撹乱せよ。
 そうすると必然的に文章は意味のないものとなる。意味が分かりそうで、分からない。意味がつながりそうで、その瞬間意味を離れる。
 そう、「無-意味」である。無意味。ナンセンス。
 そうした意味での意味を持たない短歌の代表として瀬戸夏子の短歌が挙げられる。瀬戸夏子の歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』からいくつか歌を挙げる。

  世の中のおとといをそして喉元に怠惰な姓だ
  彼らは身長を測って亡命は素晴らしいまだ別腹のマリアージュ
  皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?
  利き手と名づけておいた葡萄の最高裁をにぎりつぶした、まだ間に合うから

 これらはほとんど現代詩に近いといってもよい。単語と単語の意味のつながりがランダムと思えるほどにイメージがバラバラに拡散し、散っている。
 一首目。「世の中のおととい」を提示するがそれがどのような意味を持っているのか説明されないまま「喉元に怠惰な姓」が来る。喉元に姓というのも謎である。しかも姓は怠惰だという。敢えて解釈するなら姓とは生まれた後も(結婚しない限り)変更されず一族の歴史に安住している。それを怠惰だと表現しているのだろう。
 二首目。「身長を測る」ことと亡命の繋がりが不明である。亡命する際に身長・体重・血液型などを申告することを表現しているのだろうか。亡命という不穏なイメージからはかけ離れた「別腹のマリアージュ」という言葉が二物衝突を喚起する。
 三首目。下の句はセックスを連想させる。しかし「サーカス」に「行数」はあるのか、という謎を惹起する。しかもそのサーカスは皆殺しだという。「皆殺しのサーカス」を戦争と解釈するとこの首も戦争とセックスという二物衝突を喚起する。
 四首目。まず「葡萄の最高裁」が謎である。葡萄=利き手と解しても謎である。下の句「最高裁をにぎりつぶした、まだ間に合うから」は最高の意思決定を自分の意志で消去する、という切迫したイメージをもたらしている。そうすると利き手=自分の最高の決意に自らが翻意するということがいえるのではないか。たとえば結婚するか否か等の決意である。さらに言えばそのような自分を「葡萄」、すなわち甘く隙のある自分と喩えているのではないだろうか。

 ではこれらの短歌、あるいは詩歌全般に多少とも存する「謎」、「無意味 nonsense」には本当に意味はないのか。
 斎藤環は『承認をめぐる病』で「統合失調症的な作家」の例として小説家カフカ、映画監督デヴィッド・リンチ、画家フランシス・ベーコン、漫画家の吉田戦車を挙げてこう言う。

「彼らの作品世界においては、象徴秩序と意味連関が徹底的に壊乱されている。共感や感情移入の試みはことごとくはねつけられ、分析や解釈はただちに脱臼させられるだろう。そのとき、あらゆる構造や意味を乗り越えて肉薄してくる「強度」の波動によって、鑑賞者の主体が侵食される。それゆえ作品の印象は「何が起きているのかまったくわからないが面白い」というものになる。」

 そう、瀬戸夏子の短歌は、「象徴秩序と意味連関が徹底的に壊乱されている」が故に、何が意味されているのかわからないがその「強度」によって面白いとみなされ得る。
 フランスの哲学者・精神分析家ジャック・ラカンは世界を想像界(イメージの世界。日常生活の場)、象徴界(シニフィアンの世界。言葉の場)、現実界(シニフィアンなくして捉えられない生の現実。もの自体)の三界として考えたが、そうしたシニフィアンなくして触れることの不可能な現実界(もの自体)、生の現実、厳然と存在する現実の手触りが瀬戸夏子の短歌には現前している。
 イメージも無意識も通過することなく、圧倒的に巨大な剥き出しの物塊が純然と現出しており、私たちはその前にただなすすべもなく立ち尽くすしかできない、とでも言おうか。
 次に②について述べる。
 上記の無意味(に見えるもの)は果たしてどのように作られ得るのか。その機制、メカニズム、装置は何か。以下にその一つの道を示したいと思う。
 一昨年度の小林秀雄賞を受賞した國分功一郎『中動態の世界』には、古代ギリシアで既に失われた能動(する)でも受動(される)でもない「中動態」という言葉の態 Voice をつまびらかにした。
 中動態とは何か。『中動態の世界』から引用する。

「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。」(注:本引用の太字部は原文傍点)

 中動態とは、宮台真司によれば受動的能動、他律的自立である。細かく見ていけば若干の差異はあるものの、ここでは宮台の解釈を採用する。
 さて、受動的能動、他律的自立とは、つまるところ憑依である。巫女のトランス状態。神憑き状態といえば具体的にイメージしやすいだろうか。我々は作品を作るとき、よく「言葉が降ってくる」という言い方をする。降ってくる。神が憑く。つまりは言葉が我々の身体を借りて我々の口をつく。冒頭に置いた大辻隆弘の歌「『つまり主体の存在が……』だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ 」の「ただ歌がわれといふ場でそよぐ」を私はそう解釈した。
 そう、そこに「私」はいない。あるのはただ言葉の海、乱反射、天啓である。
 故にそこに意味はない。幻覚剤を飲んだシャーマンの言葉のように。象徴界(無意識のシニフィアンの世界)にある言葉の大洋から「私」の身体に降ってきた言葉の連なりだからだ。まだそこに意味があるとすればそれはまだ日常生活のルーティン化した言語使用から抜け出ていないことになる。日常生活の我々の営みは生産を目的としている。言い換えれば何かの目的を持ち、何かの意味を持っている。そうしたものに与せず、無意味、分からなさをありのままに享受する。言葉は無限にあり、その言葉に身を任せること。すなわち偶然性に身を任せること。短歌に即していえば、定型を依り代として言葉を招くということができるだろう。定型とは日常では使わない言葉の組み合わせである。言葉を変え、その偶然性に身を委ねたり偶然性を作り出してみれば人は自由になることができる。言葉にできない表象不可能なものを言葉にするということ。言葉にできないものを体験すること。それが後述する「観光」である。詩人の広瀬大志は「しかし語り得ぬものに沈黙できない。むしろあらゆる技法を凝らして饒舌になる。詩は。」と言う。分からなさの解釈の余地、解釈の隙間こそが無意味の意味ではないだろうか。言語の戯れ=賭け jeu。偶然性に身を任せることは現代のGoogleによって個人の嗜好に最適化された検索結果やインターネットのパーソナライズドされた広告からの逃走を手助けすることになるだろう。「観光」とは新しい検索ワード=自分の外の言葉を探す旅ということができる。
 以上の①②からどのような結論が導き出せるだろうか。
 一昨年度『中動態の世界』と同じく話題になった、第71回毎日出版文化賞(人文・社会部門)の東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』によれば、「誤配」がキーワードとなる。誤配、手紙を出すこと、宛先でないところに届くこと、また届かないこと、届いても千切れていること。
 誤配とは一言でいえばエラーのことである。毎年一〇億人を超える観光客が世界中に排出され、主義・思想に関係なく消費に興じたり、あてどなく街を歩く。そこにはっきりとした目的はない。ただ海外の光景を観て、友人たちと遊び、無目的な会話に興じ、場合によってはInstagramに投稿したりする。そしてそこで出会う事物はほとんど偶然に近い。美術に興味のない人間がフランスやイタリアで美術館巡りをし、ロマンティークに興味のない人間が中国の高層ビル群の夜景を見て感嘆したりする。個人的な体験に照らせば、ベトナムの古都フエでフランスの傀儡王朝だった阮王朝の旧王宮の壮麗さに圧倒され、ハノイ近郊のハロン湾では奇岩群や洞窟を体感し、中部のホイアンでは世界遺産であるホイアンの街並みの美しさに見惚れ、ホーチミンではベンタイン市場で東南アジアの狂乱に慄き、それらの体験をもとに歌を紡いできた。そこで体感したものは確かに皮相的、表層的なものかもしれない。むしろ観光で体験するものはすべて皮相的、表層的なものといってよいだろう。逆に言えば、観光で体験するものは本質的なものではあり得ない。観光した国の本質をたった数回の訪問で体験しようなどとは誰も思っていないだろう。そこに「誤配」、エラーの可能性がある。観光において全ては偶然的な体験である。トランジットが上手くいかない、リコンファームしたところ大幅に国内便が遅れている、パスポートを紛失した、等々。誤配とは観光における偶然的な体験のように、表層的、皮相的な体験であり、逆に言えばそれがまた新たな体験を生み、新たな感動を生み出す。

「画集などいちども見たことのない門外漢がルーヴルでモナリザに出会い、自分で料理も作ったことのない貴族がパリで屠殺場を見学する。それはむろん誤解に満ちている。観光客が観光対象について正しく理解するなど、まず期待できない。しかしそれでも、その『誤配』こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。」(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

 短歌も同じではないだろうか。「言いたいことを伝える」ためではなくて、広く誤配すること。その一つの手段として「象徴秩序と意味連関が徹底的に壊乱されている」無意味な短歌を誤読すること。一五〇〇年前から続いてきた和歌。それが連綿と誤配され、近代短歌となり、前衛短歌となり、ニューウェーブとなり、現代短歌となった。いわば万葉集の誤配、散種である。よく「哲学はプラトンに対する注釈の歴史である」といわれるが、短歌も同様ではないだろうか。万葉集に対する注釈、応答の歴史。そしてまた千年後にも未来の歌は紡がれるのだろう。

  スクランブル交差点越しに見るヒカリエのGodless Posttruth
  銀春のごときゃりーぱみゅぱみゅなキャバ嬢は十三番目の使徒となるべし
※(一首目:Godless Posttruthに「神亡き後の ポストトゥルース」のルビ)

 この二首は私の歌だが、短歌を始めたきっかけとなったTwitterでの黒瀬珂瀾の歌や塚本邦雄、葛原妙子だけでなく、今日まで私が影響を受けてきたウィリアム・バロウズのカットアップ、サイバーパンク、90年代渋谷カルチャー等の「誤配」、コラージュである。
 千年後に誤配されるよう、歌を紡ぐまでである。

(了)

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