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遺言。

2019年12月4日。
界隈では「セカンドバースデー」と言うが、私にとってはこの日がそれにあたる。

「大変申し上げにくいんですが、悪性でした」

2019年12月4日、私はがん告知を受けた。
頭が真っ白になるとかよく言うけれど私はその時のことを鮮明に覚えていて、幅の広い肩をガックリと落とした隣の夫と、目を潤ませる同い年くらいの女医。
一言目に出たのは、「子どもに何て言えばいいですかね」だった。
当時長女は小2、次女3歳、長男2歳。
自然と涙が出ていた。

上咽頭がん。
鼻の奥突き当たり、耳や喉ともつながる場所に腫瘍が隠れていた。

100万人に3人だって。
その”3”がここにいますよ、と。

鼻の奥に腫瘍があるとか嘘だろ、と思うほど
がん告知をされた帰り道は冬の匂いがした。
私は嗅覚がいいんだぞ。
17時過ぎ、冷えて澄んだ空気に車のライトや街灯が光って見えたのは
季節のせいか、涙のせいか、分からない。

思考が回らないまま保育園に子どもを迎えに行った。
深呼吸をしたら涙が止まって、いつもの顔で子どもに手を振った。
母は強いんだ、本当に。と自分で思った。


治療法は35回の放射線治療に抗がん剤を3回、追加治療で抗がん剤をさらに3回という、ヘビーな内容だった。
毎日放射線を当てるので、最低2ヶ月程度の入院が必要。
喉に放射線を当てるので少しずつ粘膜のダメージや吐き気が強くなり、後半は何も食べられなくなることが多い。
なので先に胃ろうをつくる手術をします、というもの。
聞いているだけで具合が悪くなった。でももう先に進むしか道はない。

子どもたちには包み隠さず話すことにした。
「ママは悪者をやっつけてくるからね⋯」とか泣いたりしなかった。
うやむやにすることが一番不安にさせることだ、と自分がよく分かっていたから。
長女には淡々とがん細胞の仕組みと治療方法を絵に描いて説明したし、がんに関する漫画を渡した。
次女・長男にも絵を描いて説明して、「こいつがいるとママ死んじゃうから無くしてくるね」と言って、「ママのバレッタ」という絵本を読んだ。
淡々と話せたことと、悲観しない闘病絵本のおかげで、子どもたちは泣かなかった。
よく理解していなかっただけかもしれないけど。

その後、2020年の1月に入院した。
入院する日の朝、長女と朝日を見て、いつも通りの時間に見送り、下の子たちは保育園に送り届けた。
その時の子どもたちの後ろ姿は、絶対に忘れないと思う。

その頃ちょうど中国ではコロナウイルスが蔓延し始め、いつ日本に入ってくるか⋯という危機感のある時期だった。
病院選択やその後の入院生活については、長くなるのでまた次の機会に。


あの日から4年が経ち、病気になる以前の生活を取り戻すどころか、それ以上に忙しい毎日を送っている。
おかげさまで治療が奏功し、元気だ。
夫からは「がんになってパワーアップしやがった」と言われる。
周りから「人生観変わったでしょ?」とよく言われるけど、正直大して変わらない。
「え、私変わらなきゃダメ?」と焦る気持ちもあったけど、最近はそれも特にない。
ただしあの頃と違うのは、不必要なものや自分には合わないと思うものは全て削ぎ落としたことや、逆に必要なものややりたいことに対しては貪欲になったということ。

食にいくら気をつけていてもどれだけ日頃良い行いをしていても病気になるときはなるし、波風を立てないために「無理」や「不条理」を受け入れようと無意識に必死だったし、私はこうあるべきだと自分の像を自分で決めつけていた。
それらを一旦全部背中から下ろした。

よく目にする「明日死ぬと思って全力で今を生きろ!」とか「今日が人生で一番若い日だ!」とかいう熱いメッセージも、元々嫌いだったけどさらに嫌いになった。
だってこの命は何となくずっと続くものだと、明日も明後日も1年後も10年後も普通に生きているものだと、そう思って生活する方が幸せに決まってるから。子どもにもそう思いながら生きてほしいから。
明日死ぬと思って生きるわけあるかよ、バカやろう。
(だから、そう思わざるを得ない戦地の子どもたちの様子を見ると怒りで泣けてくるので凝視できない)

ただし、”今”が当たり前ではないことは身にしみて理解していて。
子どもに出したご飯が食べてもらえなくてイライラしたりとか
仕事で忙しいときに限って新規の依頼がたくさん来たりとか
すっぴんの時に限ってスーパーで知り合いに会って恥ずかしくなったりとか
この瞬間にぴったりの音楽と温度に出会えて心震えたりとか
久しぶりに食べたペヤングの美味しさに悶絶したりとか
子どもを迎えに行く時間に感じる疲労感と綺麗な空も
「よし、もうちょいやるか」と夕方から入れ直す気合も
全部、全部、当たり前のことじゃない。

当然のように目に映る全てのものは、一瞬にして消えることがある。
それは確かだけど、私は私と、時間と、戦いながら生きていきたくはない。
長い未来に夢や希望を馳せながら、今の暮らしを楽しんで生きていたい。


もしママがいなくなっても幸せはいつも側にあるし
あなたたちの夢も希望も逃げないから何も心配いらないよ。

2023年12月4日。
今の私から子どもたちに残す、最初で最後の遺言だ。




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