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さよならとシ・フラット


「考え直さないか」

 絞り出されるような男の声が、冷房の効いた部屋の中に響いた。
 男の前に座る少女は、その様子をまっすぐな目で見ている。

「藤崎、お前がいないと困るんだ」

 どうにか縋ろうとする細身の男に対し、藤崎と呼ばれた少女は微笑みながら、しかし、はっきりと首を振った。
 その凛とした雰囲気は崩れることがなく、頭の動きについてくるようにポニーテールが左右にゆれる。藤崎は「安住先生」と小さな声で男に語りかけた。

「部活動を辞めることは、生徒の自由であるはずです」

 藤崎の言い分は正当だった。安住は指揮者としても吹奏楽部を率いる顧問の音楽教師、藤崎はそこに所属する吹奏楽部員。学業が本分の学生にとって部活動は二の次、というのは常識とも言える。それを教師である安住もわかっていた。
しかし、その『建前』を安住は飲みこめなかった。四十を過ぎた男が必死に「行かないでくれ」と訴えかける。その情けなくもなりふり構わない様子から、十七歳の少女は逃げない。
隣接する音楽室では、合奏のために集まった吹奏楽部員たちが各々練習する音が聴こえてくる。

「せめて、理由を聞かせてくれないか」

 安住が藤崎に座るように促すと、彼女は安住の前にちょこんと腰掛けた。ずっと握られていたのだろう、ぐしゃぐしゃに縒れた退部届けが机の上に置かれる。
 それを見て、安住は藤崎も緊張していたのだとようやく理解した。藤崎は、少し困ったようにしばらく目線を彷徨わせていたが、やがて口を小さく開いた。

「──わたし、先生が好きでした」
「……あ?」

 安住は思わずポカンと口を半開きにした。
「そういう意味じゃないですよ」

 マヌケ面の安住を見て、藤崎はいたずらが成功した子供の笑顔を浮かべる。二回りほども歳が違う生徒にからかわれた安住は、わざとらしく咳払いをした。

 音がピタリと止む。
横目で時計を確認すると、全員そろっての基礎練習の時間になっていたらしい。低音楽器から、基準の音に合わせてチューニングをしていくのが扉越しに響いてくる。
 オクターブで重なっていく基準の音『シのフラット』を聴きながら、安住は細くため息をついた。聴き慣れた音は心を落ち着かせる。藤崎はそんな安住から目を離さずに言葉を続けた。

「でも、先生のことが好きなのは本当ですよ。先生の指揮で演奏している時が、わたしは何よりも楽しかったから」

そう語る彼女の顔は恋する少女そのものだった。憧れの存在に目を奪われて他のものが一切見えなくなった、そんな危うい純粋さを藤崎は感じさせる。

「先生も、わたしのこと好きだったでしょう?」

 対照的に藤崎の口調は、やたら確信に満ちていた。居た堪れずに視線を逸らした安住を、逃さないと言わんばかりの声色。
 安住は観念したように小さな声で返事をする。

「……当たり前だろう。お前のトランペットは本当に魅力的で、このバンドの要なんだ。お前の演奏に何度助けられたことか。コンクールも近いんだ。お前がいなくなると困るんだよ」

 藤崎は、吹奏楽の花形と言われるトランペットパートの、そのエースプレイヤー。彼女のその華やかでまっすぐな音色は、まさにバンドの柱だった。今、聴こえてくる部員たち音色に藤崎の音が入っていないだけで、何かが欠けていると実感してしまうほどに。
 安住の返事を聞いた藤崎は、これ以上ないほど嬉しそうに笑った。

「先生の創る音楽は、広くて大きな海みたいだった。その海はわたしの知らないものがたくさんあって、わたしはそこを泳ぐのが楽しくてしかたなかった。フランス革命みたいな昔の出来事も、火の鳥みたいな伝説の生き物も、音楽を通じてなら触れることができた」

 音がピタリと止む。
 静かになった部屋の中を、藤崎の物語でも語るようなうっとりとした声が満たした。彼女から伝わってくる、心底音楽が楽しいという気持ち。
 だからこそ、その真意が図れない。

「そこまで言うなら、どうして退部を……」
「──夢中になりすぎたから」

 今まで藤崎の声から、柔らかさが消える。

「わたしには先生との音楽だけあればいいと、本気で思っていました。勉強よりも、友達と遊ぶよりも、部活が楽しかった。でも、わたしが先生の元で演奏できるのはこの三年間だけ。運動部みたいにコンクールで良い成績を残しても、プロになれるわけじゃない。今のわたしから吹奏楽を奪ったら、何も無いって気付いたんです」

 藤崎の言うことは正しかった。吹奏楽部は、野球部やサッカー部などと違って、高校時代の大会の成績がプロへ繋がることがない。所詮は学生のお遊び、とも言ってしまえるだろう。
 安住はとうとう、何も言えなくなってしまった。藤崎の将来を考えたなら、ここで退部届けを受け取ることが正解なのだ。
 安住と藤崎は指揮者と音楽家ではなく、どこまでいっても教師と生徒。生徒の未来を潰しかねない真似は、教師としてできなかった。

「わたし、先生に自慢してもらえるような人になりたい。だから、ここで辞めるのをどうか許してください」
「──……わかった」

 丁寧に育ててきた稚魚が、生簀を飛び出して本当の大海原に泳ぎ出していく。彼女が今まで大きな海だと思っていた、安住の世界から去っていく。
 子供が親離れするような、恋人が自分の元から去るような寂しさが安住を支配する。しかし安住はそれを振り切って、縒れた退部届けを受け取った。
 藤崎は立ち上がり、深々と頭を下げた。そして音楽準備室から出ていく背中を安住は何も言わずに眺めていた。パタリと扉が閉められるのを確認して、安住は息を吐きながら天井を仰いだ。
 
再び一斉に聴こえてくる『シのフラット』。安住の音楽の基礎になるその音は、昨日までとは違う音だった。
 

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