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好きだったことを思い出した

たぶん中学生の頃いちばん好きだった「銀色夏生」の詩集。

小学生の頃からカメラ好きだった父が家じゅうにカメラを転がしてくれてたおかげで撮りたいと思った風景があればすぐにシャッターを押すことができた。それで空の写真を撮るのが好きになった私は、中学生の頃いまは閉店してしまった近所の本屋でみつけた銀色夏生の写真と詩の世界に一瞬で引き込まれた。

おこづかいで時々文庫本を買いに行った。その時いつも目の端に入るけれどなかなか手が出せない一冊があった。それがどういうものかもわからないけれどとても気になって、だけどとうとう買えなかった本。

「金子みすゞ―わたしと小鳥とすずと」

薄紫色に金色の文字で書かれた文字の背表紙。たたずまいが凛としている本というのはおかしな表現だと思うけれど、そういう印象があった。

手にとってみたいけれど、なかなか手がだせず。ただそのなぞなぞのようなタイトルの言葉並びと、なんと読むのかわからない名前に敷居の高さと魅力を感じた。

あれから20年以上たって、子どもとテレビを見ているときに自然と知ることになるこの有名な詩。「有名な詩」としてはじめて知るこれは子どもの機嫌を損ねないことに全神経を注いでいたあの頃私の心にはピンともコトリとも触れてこなかった。

こんな地味な番組勘弁してよ、もっと子供がうきうきするやつお願いします。と心で悪態をつきながら一番いそがしい夕方の時間を過ごしていた。

そしてまた月日がながれて今日の話なんだけれど。

小学校の授業参観があった。そのあとの懇談会で担任の先生がふだんどのような授業をしているかということを伝えるために模擬授業なるものをしてくれた。自分たち保護者が生徒になり、授業内容はとても楽しく子ども達から人気がある先生だということにもなるほどと思ったわけだが。

配られたプリントを見ると「金子みすゞ」と書いてあった。「わたしと~」ではないのだが「あのテレビでやってた人のやつね」とたいしてというか全く知らないくせに、「あー知ってる知ってる」と思ってる私。

まずはみんなで音読。どこで切るのかリズムがわからなくて苦戦する。元気がない、もう一回といわれ苦笑しながら再度読む。正直言って最後まで読んでもまったくよくわからない。

お題が出されて、ここの文をどう解釈しますか?というような内容。自分はこう思うということを発表する。なんとなく答える。だけどこれといった確信がなく全くと言っていいほど理解できないまま、その後近くのお友達(お母さん方)と意見交換する。

ここまでそれなりに一生懸命参加していたつもりだった。しかし国語の授業というのはこんなに難しかっただろうか。考えたり発言したりするたびに頭の中で錆びた鉄と鉄がこすり合うギギーっという音が聞こえそうなくらい頭が固い。言葉出てこない。

隣の席のお母さんの意見を聞いた時だった、何かホワーンと「あー、そういえばそうだった」という柔らかい窓が開いたような感覚に襲われた。

簡単に言うと、そのお母さんが解釈したという内容を聞いて、何度読んでもまったく意味が解らないと思った詩の内面にすっと入れたということなのだが。「なるほどね、そういう意味なんだ!この言葉はそういう意図があってここにあるんだね。」そういうことを話しながら、、、

(あれ?ちょっとまってこの感覚!)

すごーく昔のことを思い出したような、前世か?というくらいの懐かしさ。詩が好きで読んでいた時のこと。正解とか不正解とかそんなもの考えたこともなかった自由な私の思想。これはきっとこういう世界を表現してるんだ、きっとそうだ!と堂々と感じられていたころ。

同じ言葉でも並びを変えるだけで全く違う意味になるということをよく知っていた頃。ただただ並べているだけでなく、この文があるからこの文が生きるということ、そういうことを敏感に感じ取って文章を読むことの面白さを感じていた頃。

先生はそういう感覚では教えてはいない。だけど子どもの頃の私は感覚でだいたいそうだろうということが解ってしまう子どもだった。何事も大体は自分の勘と感覚で乗り切って生きてきた。不器用だし考えることも苦手だからそれだけがなんとか生きていく術だった。

それがいつのまにかなくなってものすごく生きづらいと感じていたのだ。

それは文章を読むということだけど、生き方にもつながっていると思う。いつから私はただストーリーを追うだけの読者になってしまったんだろう。そりゃ昔好きだった本を読み返しても面白くないはずだわ。面白さはそこには書かれていない、読み解く自分自身の力が失われていたのだもの。心がものすごく硬くなっている。もちろん頭もだけど。やわらかいやわらかい頭と心になりたい。

たった10分だか15分の模擬授業の時間中に私はひとりタイムスリップして幼い頃の自由だった自分に会い、好きだった詩集を思い出し、その本を買いにいくのにわくわくして向かった道中。そして本屋のおばあちゃんの遅いお会計中に必ず目の端に入る薄紫色の本の背表紙まで思い出すことになったのでした。

金子みすゞもっと読みたい。その思いが大きく膨れ上がって心は満タン。

あの頃、この本を手に取って読んでいたならなあと。きっと今読むよりもそれはそれは素敵で広大な深い世界に潜り込めたことだろうなと思う。だけど読んでいなかったからこそ今日ものすごく心に響いたということもあるよね。

だからと言って急に感覚が冴えて何もかも子どものころのように解ったり(解ったと思っていただけだとしても)はしないのは明確。

ただ今日感じたこのやわらかい小さい感覚を広げていけたらもう少し毎日がふわっと楽しくて明るくなるんじゃないかなと希望を持ったから。

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あとこれはまた同時に感じたことだけど、自分の語彙力のなさもあって、人前で一言二言話すときの自信のなさ、これ言ったら変じゃないかな?と思ってしまって全く言葉が出てこない、頭が真っ白になってしまう。もっと自信を持っていいのだ、どの席に座ってもいいのだ、自分の服など誰も見ていないのだ、いちいち気にしなくていいのだ、そういうことを言い聞かせながら、気にしながら本題が頭に入ってこないのはHSPだから仕方がないことなのかなあ。



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