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もしこの世から接吻がなくなったら。

気がつけば、しばらく接吻してないなぁという想いがあった。

しかし、それはわざわざ、最近してないよね?とか、なんかしないよね?とか相手に確認するものではなし、激怒するようなことでも悲嘆するようなものでもないのだが、毎週届いていた便りがぱたりと届かなくなった待ち人、もしくはお気に入りのカップアイスが近所のスーパーの売場から消えたときの小学児童のような、そこはかとない頼りなさとなって、浮き上がったり沈んだりしていた。

焼き肉を食べにいきたいというほうが、簡単である。あるいは、寿司か。

夜の営みがないわけではない。

が、それは時を重ねるごとに簡素になっていくのである。片方が疲れたぁといって身を横たえたら、もう片方が肩をもんでやり腰を押してやるのと同じくらいのもので、猿の毛繕いにも似る。

定番の場所を二ヵ所タッチしたら、すぐ目的地に直行するのである。いままでのように時間をかけた寄り道や道草はしないのである。峠の茶屋で一服のようなゆとりはないのである。

そして、その間も、出会ってからこのかた何度も交わしてきた接吻という行為が、消えつつあるのである。

結婚生活にはいると、交渉そのものすらなくなる場合もあると聞くし、そんな小さなことを気にするほうがおかしいのかと思ったりもして、また気にしてるとも思われたくなくて、何故とも問わないのである。

性を生業とする女の人は、お客さんとは接吻しないときいたことがある。それは特別だから、本命の旦那のものであり、しないものなのだと。

それってほんとかな?という気持ちがあったが、なんとなく分かる気もするのである。

つまり、わたしは、接吻という行為には、自然とその人の本心があらわれていると感じているようなのだ。

出会いたてのころ、これまでつきあってた人とはセックスはしてもあまり接吻はしなかったと語っていたので、接吻が好きじゃないのかなとうっすら理解していたが、自分にはそんな風でもなかったので、自分はこれまでの人より愛されてるのかなといい気になっていた。

いざ自分までそうなってくると、だんだんと不安になってくる。

私は本番もだいすきなのだが、やはり接吻がないのとあるのとでは、気持ちの交流の質が違ってくると感じる。

どれだけ本番の相性がよくて、これ以上の相手がいないくらい最高でも、唇と唇での接吻がまったく皆無ならば、もっとドライで、スポーツのような割りきった交接になるのだろうなと感じる。単純に快楽に没頭できそうだ。相手との精神的なものや心情は問わずに楽しめる、テニスのボレーを続けてるような。

しかし、私の気持ちは、そこまでドライなわけでもないのである。付き合いも長くなり、人生の同志となり、相手の気持ちはもう分かってるから、しなくてもそんなに気にならないと思う節もあるが、やはりあまりに無いと、もはや一連の行為は耳掻きと同じなのではと思ってしまうのが、ふしぎな心理だ。

なんだか不倫を題材にした、夫婦生活に不満を抱える主婦向けコミックみたいな内容になってきたので、ここらへんで、今日はやめておこう。

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