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北インド・ラダック絵日記

2019年2月末から4月にかけて約40日間、単身インドのジャンムーカシミール州、ラダックへ行きました。

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ラダックは、インド最北のジャンムー・カシミールでヒマラヤのふもとにある地域。アーリア系よりも、私たちと同じモンゴロイド系と、パキスタン国境近くには中東の顔立ちをした人も。敬虔な信者の多い、チベット仏教圏。

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幸いにも国内で、日本とラダックの文化を繋げる事業をするラダック人の男性と知り合うことができ、旅の計画と現地での動きをざっくりと手配してもらえたため、現地の移動で困ることはほぼなかった。

でも現地では、予定の村で車から降ろしてもらったら一人っきり。10日~2週間ほどでまたドライバーが迎えに来てくれ、次の村で10日間、途中に山歩きも含め、といった感じで、ラダック語に囲まれながら、ラダック人と生活する日々。帰国まで、自分以外の海外旅行客に会ったのは1度だけだった。

ここからはとりとめもない思い出を、断片的に、絵日記と写真で。

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↑ハヌパタ村という山間の小さな村。写真は女性の糸巻き姿。左手に刈りたての羊毛を持って、右手で棒をクルクル回して糸にしていく。彼女、鼻歌うたいながらやるのだけど、私にはとても同じようにできなくて情けなかった。むかしは、日本でも見られた風景だろうね。

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↑お世話になった家のお父さんと放牧にいく。村はずれのちょっと草があるところまで羊と山羊を連れて行ってお腹を満たさせる。隊列を乱す者には容赦なく石つぶて。ラダックの人たちは皆とても親切で優しいけれど、老若男女問わず家畜の扱いはなかなかのもの。

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↑世話になっていた家のおばあちゃまが急逝。葬式は自宅でおこなう。この絵は、その様子をメモしたもの。ラダックのお葬式は坊さんが何人も来て、6日間もお経を唱え続ける。

読経のハーモニーが美しかったので、むりやり五線譜で記録し歌っていると、村のおばさんに「ふざけるな」とたしなめられたが、私としては本当に心に響くメロディーだった。


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遺族の悲しみ方は尋常じゃない。立てないぐらい泣いちゃって、喪主として立ち回るのも困難なので、葬儀進行は村じゅうのみんなでまわす。

一介の旅人でしかない私も、手伝わざるをえない空気になってきた。結局、村人以上にヘトヘトになるまで働いた。何百もの燭台の火を絶やさないように糸を縒り続けたり、絶え間なく来るお客に茶を振舞ったりと、大忙しだ。

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この地には「ゴミ」がない。ゴミという概念がないに等しい。資源がほぼ、村の中で回転・完結してる。プラスチック製品は多少入ってきているけれど、まだまだ自然資源で生活がまわってる。風呂に入る習慣もないし、地面はウンコだらけだけど、不思議と不潔とは思わない。とはいいつつ、自分は水汲みの仕事を率先して引き受け、よく川で水浴びしてた(村人ドン引きしてた)。

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食事は毎日同じ材料(豆、小麦、大麦、野菜ちょっと、バター)同じ味付けだけど、焼・蒸・茹・煮の違いでメニューのバリエーションを増やす工夫をしている。一日に何度も飲むバター茶は、高地では貴重なビタミン源であり、動物性たんぱく源。

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↑サクティ村は標高4000mほど。星が近い。お世話になったお家のトイレが、こんな感じだった。そういえば、ラダック(に限らないと思うけど)では、用を足した後、お尻を拭かない。「どうしても拭きたいときどうするの」ときいたら「石で拭く」って言ってた。石かぁ。

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この村の学校では、なんと授業を受け持つことになった。切り絵が得意だから、あらかじめ「影絵のワークショップをさせてもらえませんかね」と頼んではいたけれど、校長先生から、一日3コマで5日間授業やっちゃってくださいと言われたので大急ぎでプログラムを考え、日本語やら折り紙やら使って、めちゃくちゃな英語で授業させてもらった。

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本命の影絵もできたから、結果オーライだ。写真はシルエットクイズの様子。ラダック人になじみある動物のシルエットで。これはユキヒョウ。

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校庭の壁には、校長の要望でインド地図を。子供たちにも手伝ってもらって4日かけて完成。

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今回はこのあたりでストップしておきます。面白いことはまだまだいっぱいあったけれど。

一読ありがとうございました。

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