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黙ることは悪か

言葉とは、一つの小石。

心に波紋を起こす、きっかけ。

その小石を思い切って投じるときの、勇気たるや。

投げない者には推し量れない厳正な取捨の末、投げ込まれた言葉から生まれた波紋は、夕陽を揺らすさざなみにも、命を奪う津波にもなる。

いたしかたない。

言葉をつむぐとはつまり、そういうことだから。

個人の声が、届きやすくなったことは、よろこばしい。

抑圧からの解放。
理不尽の排除。
腐敗の撲滅。

それらが数年前とくらべて、ものすごいスピードで新陳代謝している。

ただし、言葉が届きやすいことと、真偽が伝わりやすいことは、残念ながらいつも同等なわけではない。

ただの小石は、ときに尾ヒレだのなんだの付けられて、膨張し、暴走する。

投じた本人の「声を上げよう」という覚悟からは遠く離れて、投げられた言葉はもはや別人格に変貌し、一人歩きを始める。

自分の言葉が毒にも薬にもなるかもしれないという配慮は、どんなに慎重にかさねたとしても、本人の目が行き届かないところで事実無根のエピソードに変容してしまったとたん、無碍に帰する。

一人歩きし始めた怪物が、ねじまげられた言葉すら事実がごとく巧妙に演説し始めようものなら、ますます厄介だ。

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「声を上げる」。
「言葉にする」。

それらは、やはり、大切だ。

しかし、あまりにも大切だという共通認識が浸透しすぎて、沈黙することが「意志がない」ことの意思表示だという勘違いも、同時多発的に起きている気がしている。

どんなに気をつけていても自分の放った言葉が怪物になる可能性がゼロではない……と思うと、自然、沈黙は長くなるのだけれど。

届きやすい言葉ほど、真意は置いてけぼりになりやすい。

口当たりのよい言葉が、本当の意味をすり替えられて拡散されている様子は、めずらしくない。

元来、言葉が波紋を起こすということは、投げかけたとたん、言葉が自分の手を離れ、ただの私物ではなくなるということだ。

だから、黙ることも、伝えることと同じくらい、大切にしたいと思う。

「何を言うか」も大切だけれど「何を言わないか」も同じくらい大切だ──とは、誰の言葉だったかしら。

毒にも薬にもなるものを、わたしたちは日々、届け合ったり投げつけ合ったり交換したりしているのだ。

言葉の重みを知る人こそ、沈黙を軽んじない……という推察は、筋違いだろうか。

一人歩きした怪物だらけの世の中だから、古典に逃げ込み、過ごすこと数日。

なんとなく、古典の多くの筋書きや言葉運びには、筆者や登場人物の“沈黙”が流れているという、感覚をおぼえている。

しかし2020年のいま、“黙る時間”は、いったいどれくらいまでなら許容されるのだろうか。

反射神経の良さと言葉数ばかり、ありがたがられて推奨されるならば、いっそ誰に認められなくてもいいから、贅沢な沈黙の中で暮らしたい。

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