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“型破り”と“かた無し”のはざまで

いつだったか歌舞伎役者の故中村勘三郎さんがテレビでおっしゃっていた言葉が、ずっと忘れられない。

「基本を身につけた者がそれを破ることで“型破り”になる。基本を身につけていない者の突飛な振る舞いは文字通り“形無し”だ」。

勘三郎さんは、このままの台詞を発せられたわけではない。けれど、数年前にテレビで聞いたこの主旨の言葉は、今日までずっとお腹の底の底で引っかかっていた。

最近はますます大きく濃く鐘の音のようにこだましている。

わたしが今まで好んで選んだ世界は、だいたいが誰にも強制されない環境で型破りを求められる場面が多かった。

当時は「型=正解」と解釈していたから正解がない(つまり型破りな)環境は刺激的だった。

それに、指示されたことばかりこなすのは、どうしても性に合わなかったから、楽でもあった。

“型破り”な発想と行動が求められる現場は、自然、個人に任される裁量が大きい。

だから周囲に信頼されていると感じるには十分だったし、その信頼にはできる限り応えてきたつもりだ。

「でも」。

ふと立ち止まる。

このまま途方も無い自由の大海原へ漕ぎ続けたとして、たどり着くのは本当に自分が行きたいところなのだろうか。

目的地へたどり着くためには今の力量で、ほんとうに万全だろうか?

……そもそも「型=正解」なのか?

自由の大海原の真ん中を漕ぐスピードが、少しずつ落ちていくのを感じた。

“型破り”が歓迎される世界に体ひとつで飛び込んだ時は分からなかったけれど、この世界では型を習得した前提で走っている人が多いということに、次第に気がつき始めた。

同時に、「型=正解」ではないかもしれない、とも。

わたしはよく、ものごとを決めたり考えたりするうち壁にぶつかると、対面しているものに関する言葉の語源を調べる。

そうするとヒントをもらえたり、次のステップが見えたりするからだ。

「型」という漢字は「井」と「刀」、そして「土」で構成されており、鋳物をかたどる道具が語源になっている。

……大海原にうちい出て「土」が恋しくなっただけだろうか。

減速は、迷いは、必然だと誰かが笑う。

荒削りの見よう見まねで飛び込んだ、そのツケが回ってきたのだと。

この手に、何もないわけではない。
自信がないわけでも、ない。

ただ、同じやり方を繰り返したところで、そろそろわたしが到達できる海域は限界に来ているんじゃないかって、その漠然とした危機感を、勘十郎さんの言葉に重ねて覚えているのが最近。

「型=正解」ではない。たぶん。

型は「土」に支えられている。

海の水のように、ふれても形を為さず流れゆくものではなく、しっかり手のひらにおさまり足の裏をつかんでいてくれるものだ。

わたしは土にわずかしかふれないまま海へ出てしまった。舵の取り方も目指す場所も、海へ出てから定めてきた。

いったん船をどこかへ停めて土に触れないと、両足で大地に立たないと、船もろともバラバラにくずれてしまいそうで、文字通りの“形無し”──かたなしだ。

なりたい者になるための方法を、どうにでもなんでも選べてしまう、この手放しの自由が広くて大きくて途方もなくて、“型破り”と“かた無し”のギリギリ中間にいるわたしは、ここ最近ずっと舵も取れずに大海原の真ん中で、ポツンと小舟に揺られてる。

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