「好きな人」と「好かれたい人」はいつも同じ、ではない
「この人に好かれたい」という欲求は、きっと誰しも一度は持ったことがある。
親に好かれたい。
彼氏に好かれたい。
友達に好かれたい。
憧れているあの人に、好かれたい。
でも、「この人に好かれたい」と思っている相手と「好きな人」は、いつも完全に一致するわけではなかったりする。
「好かれたい」のはつまり「認めてほしい」から──なんてことも、ある。
もっと言えば「あなたに認めてもらいたい」という意識は「あなたにぎゃふんと言わせたい」という戦闘態勢が化けの皮を被ったものだったりもする。
だから「この人に好かれたい」の“この人”のことを、必ずしも好きではないこともある。
いや、少しちがうか。
「好き」にもいろいろ、あるからな。
ただやっぱり「好かれたい人」と「好きな人」が、いつもイコールであるとは、限らない。
「好きな人」は、必ずしも自分のことを好きでなくてもいい──ということもある。
相手がどう思っているかは気になっちゃうけれど、同じ重み、同じ質量の分だけ思い合えるのは奇跡だと、知っている。
「好かれたい人」に対しては、そんな奇跡、じれったいだけ。
今すぐ滞りなく分かりやすく「この人はわたしが好きだ」と感じたい。
「この人がわたしを好きならしめたもの」などと思っている。けったいだねえ。
「好きな人」がちゃんといると安心感も増すけれど、「好かれたい人」ばかり増えたとて、窒息しそうになるのだ。
わたしはこの「好かれたい人」が多すぎて酸欠になって心が壊死しそうだったから、その息苦しさが痛いほど分かる。
「好かれたい人」が多すぎると、漫画『DEATH NOTE』に出てくる死神の目のように、誰彼構わずわたしに対する愛情数値が浮かんで見えるようになる。
あの人は100、あの人は1000、あの人は50……という具合に。
けれどそれも当たっていたのか知らないし、今となってはどうでもいい。
当時(だいたい5年くらい前)は「ぎゃふんと言わせたい」人に対して「わたしのことを好いてよ」と思っていたから愛情のねじれが甚だしくってもはやネタ。
そんなネタな時期があったから、「わたしにとってこの人は、“好きな人”なのかな? それとも“好かれたい人”なのかな?」と自問自答の間を持てる。
いつのまにやら、だんぜん「好かれたい人」が減って(たぶんゼロにはならない)息が楽になりました。
あとは「好きな人」との奇跡を満喫できれば、もうそれで天晴れだ。
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