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「自分の感受性くらい、自分で守れ ばかものよ」。

 おもに、ものを書く人が自戒を込めて、また自身を鼓舞するために時折引用しているのを拝見する、茨木のり子女史の詩。

 自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

『自分の感受性くらい』 単行本 – 2005/5/1 茨木 のり子著

 隙のない、閃光のような詩だなと、毎度思う。

 自分の感受性、というのは分かっているようで、実は雑味が混ざっていたり微妙にピンボケしていたりする。

 その機微は、あまりにも分かりにくいから、なかったことにもできてしまう。

 分かったつもりに、なってしまう。

 ふだん、自分のことは自分なりになんとなく把握している、つもり。

 わたしはこれが好きで、これが嫌い。
 これは許せるけれど、こっちは許せない。
 こういうときワクワクして、こういうときに落ち込む──といった具合に。

 ここ最近はそのバラエティを、より明確につかんでおきたくて“感受性アンテナ”の感度を数倍上げている。意図的に。

 感度を上げる、というのは具体的に言うと、なにかに出くわすたびに「これがないと生きていけないかどうか」を自分に問いかけるということだ。

 おいしいものを食べたりとても傷ついたりまんじりともしなかったり怒りで体が爆発しそうだったり愛おしくてたまらなくなったりハッとする景色を見たり目をみはるほどの驚きがあったりするたびに、自分に問う。

「これは、わたしになくてはならないものなのか?」
「なぜ、わたしは今こころがうごいているのか?」

もしくは

「何故、こころがまったく動かないのか?」。

 価値観の断捨離だ。

 感度をあげればあげるほど、ほこりをかぶっていた世界が真新しく見えてくる。そして身軽さを与えてくれる。けれど同時に、残酷な行為でもある。

 なぜなら立ち現れてきた世界には、持っていけるものと持っていけないものがあるから。

 物理的なものも、精神的なものも。

 無邪気な取捨選択の果てに、輪郭を帯びてきた世界がどこにあるのかは、分かりかけている。けれど、その世界へ行く方法が、まだ手探りだ。

 川の向こうに目的地は見えていて、でも流れが速いし川幅が広くて歩いて渡れない。足元の木を集めてイカダを作って渡ろうか、それとも誰か川の向こうへ行ける道を知っている人を探して連れて行ってもらうか、もしくは人よりも大きな大鷲を手なずけて童話みたいに空を飛んで川の向こうへ到達するか──そんなふうに、考えあぐねている。

 そしてその“川の向こうへ渡る方法”のうち、なにが一番前向きに、命をたぎらせてつき進めるかな、ということを、あれこれ手を出しながら探し始めた。

わたしの場合は、その“川の向こう”を示してくれるものと、しっかり出逢うことができたから、幸運だと、思う。

 ふだん、感動に時差があるからこそ、今回食らったこの衝撃からは絶対に逃げてはいけないと思っている。

 なにか人生が劇的に変わってしまったかというと、まだ分からない。けれどずっと放置していたことに少しずつ向き合い始めた、とは言える。

 今までのわたしは、極彩色の理想ばかり目に入って、いろいろなことを求めすぎた。

 その散漫さは、何者でもない者ゆえの不安と焦りと欲深さから来るもので、心もとない日々は、自分の感受性を曇らせる。

 でも本来、何者でもない状態の、なにが悪いのだっけ。

 何者かにならなければならないとは、誰が決めたのだっけ。

 そもそも”何者"って、ナニモノだ?

 さて、その正体は?

 感度をあげれば、“何者”かが見えてくる。たとえそれが、よく知っている“何者”ではなくても、実体を伴わなくても、“何者”でもないのだとしても、もうかまわない。

 蹉跎(さた)歳月は、もうおしまい。今よりもっと、単純明快に生きていく。

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