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タピオカミルクティと欲望コントローラー

2月から3月上旬まで、平均すると一週間に一度は東京に来ていた計算になるくらい、ひたすら北海道と東京を往復していた。

ときどきなら「やっぱり東京は東京の良さが、あるよね」と、都会の華やかさや雑踏にどっぷり浸かりながら、他地域とのコントラストを楽しむ余裕もあった。

けれどさすがに一週間に一度くらいの頻度だと「もうひとつ家ほしい」という気持ちになってきて、東京感を楽しもうという気力も失せ、仕事が終わったらさっさと宿に帰ってAmazonプライムで映画見よ、という気分になってくる。

「刺激」が、「慣れ」にころりととり替わるのが早くて、我ながらゾッとする。

ところで、先日の出張で打ち合わせをしておる際、ある女性編集者が、タピオカミルクティを飲んでいた。

わたしはそれを見て「いいなあ、わたしも飲みたいなあ」と思った。

台湾で、もちもちのタピオカがたっぷり入った格安&濃厚なミルクティを飲んだのだが、あの時の幸福感が蘇ってきたのだ。

一瞬で、頭の中がタピオカミルクティでいっぱいになった。

打ち合わせが終わったら真っ先に「タピオカミルクティを飲むぞ!」と思いながらGoogleで近くのお店を探した。

Googleマップのピンが立ったのは、現在地から歩いて15分くらいのところだったから、「さすが東京。欲しいと思ったものは徒歩圏内で全部手に入っちゃうのね」と思って意気揚々と風を切り、歩いて向かった。

が、途中銀行に寄らなければならないことを思い出して、ただまっすぐ歩いて向かえばよかった道を少し外れ、銀行を目指した。

用を済ませ支店を出ると、冬と春のつなぎ目の気まぐれな風にさらされながら、いざ念願のタピオカミルクティを飲める店へ歩き出す、はずだった。

しかし、先ほどの熱量はどこへやら、まったくもって、わたしのタピオカミルクティへの執着は、跡形もなく消えてしまったのだった。

「あれ、わたしなんでこっち方面へ歩いていたんだっけ」とすら思ったからもはやくだんのタピオカミルクティはパラレルワールドか何かで目撃したものだったのかと思うほどだ。

銀行の支店の自動ドアの前で、開きっぱなしのGoogleマップの画面に目線を落とし「あ」と思い出す。

「そうそうわたし、タピオカミルクティを飲みたくて、こっち方面へ歩いていたんだった」。

思い出したはいいが、わたしのタピオカミルクティへの猛烈な欲望は銀行というたった数分の所用を挟んでしまったことにより一瞬にして消え去ってしまった。

季節の変わり目よりも、気まぐれすぎる。

けれどこれまた困ったことに、あまりの変わり身の早さについて、覚えがないわけではない。

東京に住んでいたときは、あちらこちらに素敵なものがあふれていた。

あふれすぎていた。

そのため、欲しいものが毎日ころころ変わったし、衝動買いも多かった。ホルモンバランスのせいもあるかもしれないけれど1ヶ月に1回くらい、衝動的に猛烈な食欲に襲われて泣きながら大量のごはんを食べたこともある(その時はひどい失恋の後だったから仕方ないよね)。

いま思い返せば、たくさんの美味しそうなもの、素敵なもの、めくるめく流行の華やかさにまんまと踊らされ、わたし自身の欲望を司るコントローラーのようなものが完全にバグっていたのだと思う。

モノも人も少ない地域で暮らすようになってよかったな、と思うのは、この欲望コントローラーのバグが、多少は解消されたと感じるからだ。

衝動買いも減ったし、どか食いすることもほとんどなくなった。

欲望を崩壊させるバグは、いっときの観光気分のときは、ほとんど発生しない。

おそらく、たくさんの美味しそうなもの、素敵なもの、めくるめく流行の華やかさが日常に近づいていくと、わたしの「欲望」に対するキャパが、すぐいっぱいになって溢れ、ちょっとずつコントローラーのネジが緩み始める。

モノやヒトに触れすぎると、バグが起きる、らしい。

東京と北海道を頻繁に往復した移動の疲れもピークだったのだろうけれど、東京という過度な「刺激」が「慣れ」になると、わたしの場合はどうやら欲望の解像度が下がってしまうらしい。

結局この日は、タピオカミルクティは飲まず、コンビニで2リットルの水を買って、帰りましたとさ。

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