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ごみのことを考えることは「どう終わらせるか」を考えること

 先日「道端のポイ捨て、気になる」という話になった。

 まだ中身が3/1くらい入ったペットボトル、お菓子の空き箱、パンクしたタイヤ、こわれた扇風機……。

 ポイ捨ての域を、とうに超え、堂々と、それらは路肩に落ちている。落ちているというか、置いてある。

 同じころ、前を走る車の窓から、大きめの白い袋が投げ捨てられた場面を初めて目の当たりにした。

 あまりの衝撃でクラクションを鳴らしそうになった。

 うっかり、では、なかった。ぜったい。

 鼻をかんだティッシュを、ごみ箱に投げ入れるみたいに、コンビニのお弁当が2〜3個くらい入っていそうなサイズの白いかたまりを、車の窓から放り投げた。

 いったい、どういうモラルをお持ち?

 邪魔だし家まで持ち帰るのがめんどうくさいから、一刻も早く目の前から消したい、という欲求からポイ捨てするのだろうか。

 この「ごみは目の前から消えれば処理されたも同然」という感覚。

 車窓から不要なものを投げ捨て、スッキリする感じが、実は、自分にも無意識に染みついている気がしてきたのは、今の仕事を始めてから。

 それって、けっこう危ういなと、自覚的になってきた。

 同時に、ごみは、どの段階で“ゴミ”になるのかを考えるようになった。

 あえてカナ表記で書く。ゴミだ。ゴミ。使えない、誰にも必要とされないもの。

 さらに植物などの有機物以外に「どう終わらせるか」から考えられているモノは、現状ほとんど存在しない気がして、呆然とした。

ビーツの煮汁で染めた毛糸

 たとえば、わたしは編み物が好きだ。

 編み物が好きな理由は、編み間違えたら毛糸をほどいて何度でもやり直せるから。

 そして、出来上がった帽子やセーターも、ほどけばまた毛糸玉に戻せるから。

 既製品のセーターをほどいて毛糸玉にして、他のセーターの穴をふさぐのに使うこともある。

 どう転んでも、毛糸製品は、ごみになりづらい。

 そして、大小さまざまな色の毛糸玉は、ころころして、かわいい。

 いくらあっても、ゴミには、ならない。少なくとも、わたしにとっては。

 脱プラと叫ばれ、嫌われものになりつつあるプラスチック製品も、もともときらいじゃない。

 愛用している登山用の水筒やバックパックは、プラが含まれているから防水性や保温性が高いし、助かる。

 プラ製だから、多少荒く使っても壊れにくいし、長く使える。

 どんなモノにも、罪はない。問題は、それらが不要になったときのことを考えない、無感動かつ無尽蔵な消費への、過剰な煽動にあると思う。

鹿児島に来て、登山の楽しさを知った

 どんどん作って、どんどん買わせて、どんどん捨てさせる。

 その猛スピードに、麻痺してしまった経済活動。消費という一方通行の盲信は、他の経済の在り方への可能性を閉ざしてしまう。

 だから一つのものを長く使うことに耐えられない。飽きてしまうし、退屈に感じてしまう。

 すでに持っているのに買うし、必要ないのに欲しくなる。

 「経年劣化を楽しもう」という文句で、なんとか一つのものを愛でてみる。しかし、そうは言ってもモノだらけの現実。生産は止まらない。経年劣化を楽しむ行為は、特別な消費行動の域を出ない。そもそも経年劣化との付き合い方は、娯楽的な工夫ではなく、限りあるモノと向き合う必然的な方法だったはずだ。

 どんどん買わせる生産スピードに、さも反しないかのような「今までの生活と何ら変わりませんよ」という顔をしながら、わたしたちは少しずつ変化の波に飲み込まれなければならない。その波が、自滅への波なのか、新しい消費行動への移り変わりの波なのかは、瀬戸際というところ。

 最終的に空気と水、もしくは土に還れないものは、溜まっていく一方だ。そんなこと、作り始める前から分かりきっていたはずなのに、なぜかわたしたちは無限に消費して、目の前からそれらが消えれば永劫消滅して無に帰すと勘違いをしている。

 選択肢が増えるよろこびに興奮したまま、消費の快楽が当たり前になっていった。

 消費の快楽でガバガバになった生産者と消費者の脳みそは、目の前の大量の生活雑貨や洋服が、壊れたり不要になったりして、使われなくなったあとどうなるか、すこし先の未来を見越す想像力を、失った。

 猛スピードの消費が、絶対悪だとは思わない。

 その回転の速さの上に、わたしたちの今の文明があるのは、ある側面の事実だから。

 この日記を書くときに使っているスマホだって、その大いなる副産物だ。

 ただ、猛スピードで構築された経済と社会の仕組みは、猛スピードで瓦解する。“当たり前”の生活の、崩壊は、もう始まっている。

 真綿で首を絞められながら、変化の速度から目をそらし、なんとなく今の生活が未来永劫続くような気がしてしまうのは、車から弁当の空箱をポイ捨てする行為と根底が通じている気がする。

 ポイ捨てする先が、車の窓の外か、自宅のゴミ箱かの違いだけ。

初めてやってみたダーニング

 たとえば「アフリカの貧しい子どもたちに衣類を寄付しよう」という広告がある。

 それを見た人は、穴が空いたTシャツや、好みが変わってもう着ないワンピースを、良かれと思って寄付する。

 けれど、寄付した先のアフリカに山盛りになっているのは、行くあてのない飽和した衣類。そうした現実は、寄付する時点では明らかにされない。

 目の前から不用品が消えれば消滅したのも同じだと、ホッとしたり納得したりしてしまう。

 わたしたちが良かれと思って寄付する衣類のほとんどは、誰にも着られることなくゴミになる。

 宇宙にも、打ち上げたロケットや人工衛星で不要になった部品が浮遊しているという。

 こうした事実を、知っている人は知っている。環境のことやごみのことに、なんとなく興味がある人以外、つまり、ほとんどの人は知らない。

 わたしも、いまの仕事をはじめるまでは、考えたこともなかった。

 自分が捨てたものが、ごみ箱の先で、どうなっているかなんて。

コンクリートだと花も土に帰ることができない

 近所の道路にも、宇宙にもゴミを撒き散らしながら、わたしたちはそれらがどう「終わるか」を、考えようともしてこなかった。

 今後、海面上昇で、国土がなくなる国が出てくる。台風や土砂崩れも多い。

 避難してきた住人たちのごみも処分できるだけの土地が、あとどれくらい残っているだろう。

 年々増える災害で、流されたごみも増えていく。もし処理が追いつかなければ?

 すでにごみを押し付けあったり、ごみで儲けたりしている国や人がいる中で、世界の人口は増え、日本の人口は減る。

 処理できないごみの山の中で暮らさなければならない未来は、安易な憶測でもない。

旭山動物園のシンリンオオカミ。日本に棲んでいたオオカミは絶滅においやられた

 未来から逆算して、現在できることややるべきことを考える方法を、バックキャスティングと言うらしい。

 コロナ禍を経て、わたしは“バックキャスティング”なる考え方に、懐疑的にならざるをえなかった。

 未来は、どうなるかわからないから。

 でも、どうなるかわからない未来でも適応できる「終わらせ方」を、試算することはできるかもしれない気もする。

 「どうなるのか分からない未来」にも、「終わり」は必ずある。

 ポイ捨てされようと、宇宙に吹き飛ばされようと、災害が起きようと、国土を失おうと、生態系を脅かさない「終わり方」があるのなら、その方法で終わらせたいし、終わらせてほしい。

 いまだに、環境問題への関心やごみのことを話すと「えらいね」「意識高いね」と揶揄に近い表現で評価されることもある。

 が、その“揶揄”の状態に、いつまで安住できるだろう。

 「消費を楽しむ」ことが「意識が高い」と評される時代があったとするなら、「終わり方を考える」ことが当たり前にならざるを得ない時代がやってくる。

 「終わらせ方」から行動を変えると、消費の仕方も変わっていく。変わらなければ、いまの暮らしはつづけられない。

 その変化は、こわくもあるが、おもしろくもあるはずだ。そうでもしないと、やってらんない。

埋立処分場

 いま住んでいる鹿児島県の大崎町という地域には、焼却処理場がない。だから「燃えるごみ」という品目がない。

 つまり、わたしたち住人が出したすべてのごみは、再資源化されるか埋め立てられる。

 文字通り、地面に埋められる。

 他の地域では、食べ残しなどの生ごみが埋立ごみに混ざって、埋立処分場に運ばれることがある。

 だから、どうぶつや鳥たちがエサを求めて埋立処分場にやってくる。

 こう書くと、牧歌的な感じがする。

 けれど、実際は世紀末かと思うような景色が広がる。

 ものすごい数のカラスやトンビが、ごみの上を飛び回り、ごみを漁り、時には埋立ごみの処理をする重機に巻き込まれて死ぬこともあるという。

 いっぽう、大崎町の埋立処分場は、生ごみがすべて堆肥工場に搬入されるため、埋立ごみには含まれない。

 だから、埋立処分場には、どうぶつたちのエサになるものが存在せず、彼らも近づかない。生臭いにおいも、あまりしない。

 わたしたちも、臭いが弱いため、ごみの近くまで歩いて行ける。

 そして、ここに来ると、なにが「ゴミ」として運ばれているのかがありありと分かる。ものすごくいやな言い方をすると「終わり方を考えられてこなかったものたちの墓場」みたいになっている。

 「終わり方を考えてこなかった」のは製造者だけの責任ではなく、消費者のリテラシーと想像力の問題でもある。

 わたしが初めてこの埋立処分場に行ったとき「あれもこれも、そのまま埋められているのだ」という事実に呆然とした。

 自分がいま使っているもののいくつかも、不要になれば、ここにそのまま運ばれ埋められ、数年後には自分が出したゴミの上に立つことになるのだと思うと、いままでの消費を省みないわけにはいかなかった。

汚れたビニール袋や下着などは焼却できないため埋め立てられる

 「ごみを燃やせば、ぜんぶ解決では?」と思う。

 しかし、大崎町には焼却炉がない。ごみを焼却したとしても水と二酸化炭素だけにはならない。

 灰が残る。その灰は埋め立てられる。

 ごみは、形を変えて残り続ける。

 なくならない。

 環境にかかわることは、一つの問題に気づくと、その他の問題もいもづる式に明らかになっていく。

 自分ごとにするには、あまりに途方もなく、あまりにも残酷な事実が、所狭しと並んでいる。

 環境問題に仕事や個人の活動をつうじて、関わる人たちの多くは一度は「人間の絶滅が最適な解決策では」という答えに辿り着くのではないかと、わたしは思う。

 けれど、自己否定してばかりもいられない。

 この変化の波を、どう乗るか。

 車の窓からポイ捨てし、何もかもきれいになった気分のまま、真綿で首を絞められながら生きていくのか。

 手元にあるモノ、モノ、モノの山が、この先どうなるのかに想像力を働かせながら、生きていくのか。

 どちらを選んでも、苦しさや絶望がつきまとう。手遅れかどうかは、“いま”の行動で変化する。

 そういう意味でも「終わり方」から考えることは、これからの、ゆるやかな絶望を乗りこなす、生きる知恵の一つなのではないのかなと、感じている。

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