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“ふつう”はいつもドラマティック──「andgram」というお宿のはじまり

事実は小説よりも奇なり。

この言葉を、何度「真理だ」と感じたことだろう。

雷に打たれるような出会いや、心射抜かれる出来事だとかアイディアは、いつも突然やってくる。

しかもそれらの多くは、なんの変哲もない日常生活に潜んでいることも、まれではない。

毎日仕事とか学校へ通う道中
何気なく入ったお店
家のお風呂に浸かっている時……

いつからひそんでいたのちょっと脅かさないでよ、と思うほど、身近なところに予想外の宝ものが仕掛けられていることがある。

もしくは、わたし自身は気づかなくても、周りの人たちが気づくことがある。

「見てごらんよ、あなたの近くにはこんなお宝があるよ!」という具合に。

そして、わざわざ非日常を求めて旅に出た先でかえりみるのは、いつもは“ふつう”だと思っている、生活のこまごまとしたことだったりする。

ここではないどこかへ、と思いながら生きてきた。

ここではないどこかへ行けば、自分の平凡さをかき消せるような気がして。

平凡は、退屈だ。要らないものだ。

そう思っていたから。

平凡であること。

“ふつう”であること。

それらがどういうことなのか分かれば、つまらない自分から脱却できると信じて、自問自答を繰り返しながら、ここではないどこかへ、その答えを求め続けた。

つまらない自分が怖かったのは、小さいころから「人と変わっている」ことが自分の価値なのだと思っていたから。

でも、何が“変わって”いて、何が“変わって”いないのか、それは誰も教えてくれなかった。

不特定多数の人たちとは違う決断をすることでしか「変わっている」自分を演出できなくて、見せかけだけでもそれが価値になればいいと思っていた。

そうでもしないと誰もわたしを好きになってくれないと思っていた、のかもしれない。

でも「人と違うことをする」ことが「身を削る」ことと同意だという感覚に陥りそうになって、このままだと永遠の消耗戦だと感じたわたしは、旅に出た。

わたしが要らないと思っているもの──手放したい“ふつう”って、一体なんなんだろう。

“ふつう”という見えない敵に刃を向け、邪険に扱ってきたけれど、本当にわたしは“ふつう”を排除したいのかな?

そう思ったから、世界中の“ふつう”をかき集めるために、“ふつう”のサンプル探しの旅に出た。

わたしの何が“変わって”いて、何が“変わって”いないのか。

わたしの“ふつう”は、いったいどこにあるのか。

それを探す旅。

「カウチサーフィン」というウェブサービスを使いながら、いろいろな国の、いろいろな人の、いろいろな生活に触れて20カ国近く周る旅だった。

わたしが「“ふつう”の暮らしを知りたいの」と言うと、地元の友達とのパーティーに連れていってくれたり、家族の買い物に付き添わせてくれたり、一緒に料理をしたり、キャンプをしたり、舞台を見に行ったり、時には学校や職場へわたしを連れて行ってくれることもあった。

わたしが関心を寄せることに対して、とても好意的な人が多かったのだと思う。「そんなの見てもつまらないよ」とは、一切言われた記憶がない。

プレゲストハウスとして、北海道下川町で民泊事業をはじめます|Misaki Tachibana|note|より)

旅を経て、わたしの“ふつう”は少しずつ、因数分解されていった。

“ふつう”を形づくる「過去」という名の粒子たちは、ゆっくりゆっくり、焦れったいくらいのスピードで、わたしの“ふつう”の再構築をはじめた。

あれから数年経ったけれど、今でもまだ完了しない。

“ふつう”は、どうやら「変わっている」ことより、言い当てるのが難しいものらしい。

再構築は、まるでガウディの建築物みたいに、死ぬまで終わらないのかもしれない。

旅を通じて再構築され始めた“ふつう”を観察する中で、いくつか、気づいたことがある。

よそから来た旅人にも、地元で暮らす村人にも、ドラマティックな“ふつう”の暮らしがある、ということ。

そして「自分の“ふつう”には、特にドラマティックな要素はない」と思っている人が、結構な数いるのかもしれないということ。

同時に「自分自身の“ふつう”」に気づくには、ちょっとしたハプニングがいるということ。

ドラマティックというと、運命の出会いだとか、億万長者だとか、生活が180度変わるようなドラスティックな体験を想像しがち。

もちろん、そういう稀有な生き様も素敵だけれど、語るに足らない人生を歩んでいる人なんて、そもそもいない。

心を動かされる振れ幅は、エピソードによって違うだろうけれど、振れ幅が小さいからって、それは「ドラマティックじゃない」ということにはならない、とわたしは思う。

自分の“ふつう”は、絶対に誰かの“非日常”だから。

非日常も日常も、どちらも同じくらいドラマティックだ。

ただ、日常という時間の流れはルーティーンで構成されているから、どうしたって単調になりがちで、そのドラマの鮮やかさを簡単に濁らせてしまうから、なかなか惜しい。

だから、宿をやることにしました。

わたしが旅先で、たくさんの人の自宅に泊まり、“ふつう”の暮らしを体験したように、旅人の“ふつう”も村人の“ふつう”も、実はどちらも替えがたいほどドラマティックなんだということを、忘れないように。

人が集まり寝食を共にし行き交う「宿」という形態は、往来する人々の「ドラマティック感度」をゆさぶる装置として、一番嘘がないと思ったから。

どうして、こんなに“ふつう”に固執するのか。

暮らしをドラマティックにわざわざ捉え直す必要が、どこにあるのか。

そういう問いに対して、はっきりとした答えは、ない。

なぜなのかは、分からない。

周囲から「変わっているね」と言われ続けた昔の自分へのアンサーを、残りの人生をかけて探しているだけなのかもしれない。

もう一つ。

わたしが「退屈だ」と一蹴していた“ふつう”は、習慣や癖、まとめて言うと「誰にも頼まれていないけど自主的にやり続けていること」を指すのではないかしら、ということも分かってきた。

それは例えば、ごはんを食べる、お風呂に入る、寝るという必要な行為から始まり、

誰にも頼まれないのに漫画を延々描き続ける
誰にも頼まれないのに電車が好きすぎて世界中飛び回って電車を撮りに行く
誰にも頼まれないのにめちゃくちゃお菓子を作りまくる
誰にも頼まれないのに楽しいから好きだからという理由だけでやり続ける○○──それらは、本人にとっては“ふつう”のこと、だ。

皮肉だけれど、わたしは自分がおざなりにしていた“ふつう”に覆い隠された、「誰にも頼まれていないけどやり続ける、何かに対する途方もない愛好」の尊さに、すっかり魅せられていた。

なぜなら、誰かと違うことに価値を見出して「自分がどうしたいか」より「相手がどう思うか」を優先してフラフラしていたわたしには、持ち得ない没入感を、彼ら愛好家たちは持っているからかもしれない。

その○○が、道理に反さなければどんなものであってもいい。

わたしには到底理解の及ばない世界を、愛でて愛でて愛でまくっている人は、十分にドラマティックな“ふつう”を生きていると感じるから。

最後に。

宿の名前は、「andgram」。読み方は「アナグラム」。

何気ない会話で出てきた単語だったけれど、呼びやすさを考えて、この名前に落ち着いて、あと、この言葉が出てきたとき、何かが引っかかった。

何が引っかかったのかを、ずっとずっと、考えていた。

「アナグラム(anagram)」は本来言葉遊びという意味で、語を分解して違う意味の言葉を作り出すことを指す。

gramは、ギリシャ語のgrapheinが語源で、絵や表、文字を書く、記録するという意味がある。

わたしが旅で自分の“ふつう”を省みたように、誰かにとっては“ふつう”の○○が、わたしや他の誰かにとっては非日常かもしれない。

言葉を因数分解するアナグラムのように、旅人と村人が出会うことでそれぞれの“ふつう”を再構築する──そんな思いを込めて。

"and"gramにしたのは、“ふつう”を再構築すると同時に、旅人と村人の何かが更新されてゆくような気がしたから。

choose and gram. 選ぶ、そして過去を記録する。

create and gram.  創る、そして未来を描く。

live and gram. 生きる、そして今を刻む。

「アナグラム」という語が意味する本来の言葉遊びとは違うけれど、言葉を入れ替え、新しい意味を見出す作業は、“ふつうを再構築する”作業と、とても似通っているんじゃないかな、と。

見えていない側面を紡ぎ出して、更新する。そうすることで素晴らしき愛をたたえた“ふつう”の自分が見えてくる。

どエラい才能なんていらない。

凡才で凡人の、平凡な暮らしが、誰かの視点と交わることでドラマティックに変わる。

“ふつう”を愛せるようになる。

そういう場所を、つくります。

Airbnb:https://www.airbnb.jp/rooms/26283713
Booking.com:https://www.booking.com/hotel/jp/andgram.html
Instagram:https://www.instagram.com/stay.andgram/

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